日和

□僕と上司と結婚指輪2
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僕は数字で埋め尽くされたパソコン画面に視線を戻す。しかし、そのままやる気が起こらず、ついうつむいてしまった。それからパソコンの画面右下をじっと見る。入力モード切替や変換モードを意味している「あ」とか「般」の文字をただみつめ、次いでたくさん並んだアイコンを眺めた。知らない機能が多いなぁ、なんて頭の隅で思いながら。でも、本当に考えていることはそんなことじゃない。さっきのトイレでの太子の表情。それから…彼女のことを考えていたんだ。
彼女?もう、彼女と呼ぶのはおこがましいだろうか。あの子のなかで、いま僕はどんな存在になったのだろう。僕と過ごした時間を、彼女はどう思っているのだろうか。会いたいか、と聞かれれば会うことはないだろうと答える。でも、彼女のことを忘れたかといわれたら?
まさか。
僕はいまも彼女の面影に包まれて生きている。
情けないけれど、いまでも彼女との会話を思い出せば自然と笑みが浮かんでしまう。そしてその後で僕は泣くのだ。

 気がつくといつのまにか太子が帰ってきていた。暑そうにネクタイをグニグニと外し、シャツのボタンを開け始めている。それからぶらんと片手から伸びたネクタイをクルクルと振りまわしはじめた。なんだかそれが楽しかったのだろう、勢いをつけてグルグルまわしだし、そうしながら自分の席まで歩いていこうとしたので、途中でネクタイが人にぶつかった。太子は驚いて止まり、ムッとした相手を前にして困ったようにネクタイの両端を引っ張ったり緩めたりしながら謝ったもんだからますます相手は頭にきたのだろうが、みんなもうだいぶ太子の性格に慣れているようで、彼は「気をつけてくださいよ」と語気強めに一言のこして歩いていった。
 むーん、と微妙な顔をしながら太子が僕の机のそばにまで来る。彼の机は僕の二つ隣なのだ。
「まったく、ここは小学校じゃないんですからね」
目が合ったのでついそういってしまった。すると太子が自分の席に腰を下ろさず、そのまま僕のところまでくる。しまった、ついかまったのがいけなかったか。
「ブヒー、残念でした!小学生はネクタイなんてつけないもんねー」
嬉しそうな顔をするところがムカツク。
「僕はしていましたよ。小学校の時。制服だったんです」
「え、私立?」
「まあ、そうです」
ふーん、と太子はつまらなそうな顔をしてネクタイをまた振りまわす。この人、これが癖なんだな。
「あ、そうだ、さっき丸夫君が捜していましたよ」
「まるお?」
太子が不思議そうな顔をした。そこで僕はフルネームをいった。
「調子丸夫君です」
「ああ、調子丸!」
合点がいった太子は「なんだあいつ丸夫っていうんだ」とつぶやく。「調子丸」まで覚えているのなら最後の一文字も一緒に覚えればいいのに。
 だが、「あれ、いないじゃん」とあたりを見渡した太子がいったので僕も部屋中に視線を走らせた。なるほど、今度は調子丸君の方がいなくなっている。ん?「調子丸」ってなんかいいやすいかも…
「本当にあいつって間が悪いよなぁ」
太子は軽くため息をついた。が、僕はすかさず貧弱男さんがいるのをみつける。
「太子、貧弱夫さんのところにいけばいいですよ、もともと用があるのは弱夫さんの方みたいですし」
「あ、そうなの?」
僕の言葉にうながされて、とりあえず太子は弱夫さんのもとへ向かった。
「おお、橘さん!」という弱夫さんの声が聞こえてきたらどうやらその通りだったみたいだ。
 そしてすぐに太子は戻ってきた。
「なんだったんです?」
興味本位で聞いてみる。
「ああ、夏休みの予定だ。夏休み!私は五日間とれちゃったもんねー」
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