短編小説

□さくら
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 桜を描こうとしたきっかけは、先生だったんだ。

 入部して1ヶ月、もうそろそろ夏のコンクールに出品する絵のテーマを決めなくてはいけない、と言う時期のことだった。
 周りの部員が次々にテーマを固める中で、僕は、テーマが全く決まっていなかった。微塵も思い付きはしなかったのだ。
 絵を描くのは好きだけれど、新しい環境に順応しなければならないというストレスや、周りは決まっていくのにという焦燥感が、絵から僕を遠のかせていた。

 大体、僕の性根にせっかちなのは相容れないのに。

 そんなこんなで、好きなのに描けないというプチスランプに陥った僕は、テーマを探すという名目で放課後の学校の裏庭をさまよっていた。
 僕の通う高校は敷地が広く、昔からある森に近いせいで自然が多い。
 そして、僕の足は無意識の内に裏庭の、それも奥の方へと向かっていた。

 とにかく落ち着きたかったんだろう。

 さわさわと葉擦れの音が重なり合うのを聞きながら、黙々と歩む。
 暫くすると、土色だった足元に儚い紅色が混じり始めたので、首を傾げながら顔を上げる。
 すると、視界いっぱいにその紅色と空色だけが広がった。

 「…わ」

 そこには、桜が小さく群れて存在していたのだ。
 所々に緑が混じる桜もあったが、とにかく、

 「綺麗、でしょう?」

 「ひゃあ!」

 すぐ後ろから声を掛けられて思わず縮み上がる。

 「ごめんね、驚いた?」

 「っいぇ、…あ。」

 くすくすと笑いながら僕に謝るその人に顔を向ければ、今度はその人も驚いたようで、笑い顔から徐々に目を見開いた表情になった。

 「君、確か…」

 声を掛けてきたのは、先生だったのだ。
 お互いに予想外に知り合いで、でもその時はまだ会話するのは初めてに等しかったせいか、沈黙が降りてしまった。

 「…桜、綺麗でしょう?」

 先生は一歩踏みだして僕を抜かしながら、さっきと同じ事を今度はしみじみと呟いた。僕は先生を視線のみで追いかける。

 「こんな所があったんですね」

 僕の言葉を背に受けて、先生はまた一歩、ふらりと前へ踏み出す。
 僕は足をとめて、先生の向こうにある桜を見上げた。

 「正門には立派な桜があるからね。でも、ここも意外と有名なんだよ」

 「そうなんですか?」

 「うん。知ってる人達はあまり言いたがらないんだ。」

 この隠された感じを壊されたくないんだって。まるで独り言のように呟いた先生の背中を見つめた。
 真っ白なシャツに、ベージュ色が基本のアーガイル柄のニットベストを着て灰色のスラックスを履いた姿は、下手すれば学生にも見えそうだけれど、それでも学生に見えないのは、僕よりも高い身長や、凛と伸びた背筋、青臭さのない雰囲気なのかなあと、思考を巡らせた。

 先生も、ここのことを、秘密にしたいのだろうか。

 「でも、そうですね…。秘密にしたい気持ち、わかる気がします」

 「わかる?」

 「なんとなく、ですけど。」

 「そっか」

 そして先生は振り向いて、下げた頭をゆるく上げながら、芝居がかった手つきで軽く両手を広げた。

 「…ようこそ、秘密の庭へ」

 静まったかと思った裏庭に、また盛大に葉擦れの音が響き渡り、それが合図かのように、薄紅色の花びらが空へ駆けるように散る。
 そんな桜達が全身を震わせる姿を背に負った先生は、泰然と僕に微笑みかけた。
 その瞬間、僕は。
 先生に、恋をしてしまったんだ。
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