短編小説
□さくら
2ページ/4ページ
桜を描こうとしたきっかけは、先生だったんだ。
入部して1ヶ月、もうそろそろ夏のコンクールに出品する絵のテーマを決めなくてはいけない、と言う時期のことだった。
周りの部員が次々にテーマを固める中で、僕は、テーマが全く決まっていなかった。微塵も思い付きはしなかったのだ。
絵を描くのは好きだけれど、新しい環境に順応しなければならないというストレスや、周りは決まっていくのにという焦燥感が、絵から僕を遠のかせていた。
大体、僕の性根にせっかちなのは相容れないのに。
そんなこんなで、好きなのに描けないというプチスランプに陥った僕は、テーマを探すという名目で放課後の学校の裏庭をさまよっていた。
僕の通う高校は敷地が広く、昔からある森に近いせいで自然が多い。
そして、僕の足は無意識の内に裏庭の、それも奥の方へと向かっていた。
とにかく落ち着きたかったんだろう。
さわさわと葉擦れの音が重なり合うのを聞きながら、黙々と歩む。
暫くすると、土色だった足元に儚い紅色が混じり始めたので、首を傾げながら顔を上げる。
すると、視界いっぱいにその紅色と空色だけが広がった。
「…わ」
そこには、桜が小さく群れて存在していたのだ。
所々に緑が混じる桜もあったが、とにかく、
「綺麗、でしょう?」
「ひゃあ!」
すぐ後ろから声を掛けられて思わず縮み上がる。
「ごめんね、驚いた?」
「っいぇ、…あ。」
くすくすと笑いながら僕に謝るその人に顔を向ければ、今度はその人も驚いたようで、笑い顔から徐々に目を見開いた表情になった。
「君、確か…」
声を掛けてきたのは、先生だったのだ。
お互いに予想外に知り合いで、でもその時はまだ会話するのは初めてに等しかったせいか、沈黙が降りてしまった。
「…桜、綺麗でしょう?」
先生は一歩踏みだして僕を抜かしながら、さっきと同じ事を今度はしみじみと呟いた。僕は先生を視線のみで追いかける。
「こんな所があったんですね」
僕の言葉を背に受けて、先生はまた一歩、ふらりと前へ踏み出す。
僕は足をとめて、先生の向こうにある桜を見上げた。
「正門には立派な桜があるからね。でも、ここも意外と有名なんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。知ってる人達はあまり言いたがらないんだ。」
この隠された感じを壊されたくないんだって。まるで独り言のように呟いた先生の背中を見つめた。
真っ白なシャツに、ベージュ色が基本のアーガイル柄のニットベストを着て灰色のスラックスを履いた姿は、下手すれば学生にも見えそうだけれど、それでも学生に見えないのは、僕よりも高い身長や、凛と伸びた背筋、青臭さのない雰囲気なのかなあと、思考を巡らせた。
先生も、ここのことを、秘密にしたいのだろうか。
「でも、そうですね…。秘密にしたい気持ち、わかる気がします」
「わかる?」
「なんとなく、ですけど。」
「そっか」
そして先生は振り向いて、下げた頭をゆるく上げながら、芝居がかった手つきで軽く両手を広げた。
「…ようこそ、秘密の庭へ」
静まったかと思った裏庭に、また盛大に葉擦れの音が響き渡り、それが合図かのように、薄紅色の花びらが空へ駆けるように散る。
そんな桜達が全身を震わせる姿を背に負った先生は、泰然と僕に微笑みかけた。
その瞬間、僕は。
先生に、恋をしてしまったんだ。