短編小説
□さくら
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「下校時間、過ぎてるよ」
校舎の一番上の階、一番端。しんとした雰囲気が漂う美術室に、僕はいた。
少し高い、でも大人の声と共に筆を握る右手首をやんわりと掴まれ、僕ははっとした。周りを見渡すと、すっかり夜の帳は落ちていた。教室に掛かっている時計は19時を過ぎている。
「あ、すみませんっ」
「いいよ」
僕の手を掴んでいた先生に顔を向けて謝ると、右手が解放された。
それを合図に散らばった絵の具を片付けようと、近くに引き寄せてあった机に手を伸ばす。
「本当に、凄い集中力だよね。」
「…あはは」
はい、と黄色の絵の具を渡されて、苦笑した。
他の部員は、僕には声を掛けずに帰っていく。いじめられているわけではない。僕は絵を描き始めると、周りに注意が向かなくなる。大きな声で何回も話しかけられてやっと気付くくらいで、そんな僕をみかねて、みんなあえて声をかけずに帰って行くようになったのだ。
そのせいで、毎回帰り支度を済ませた先生に声を掛けられるまで美術室に残るようになってしまったけれど。
「どう?完成しそう?」
「まだ、です」
苦笑しながら所々に絵の具の付いたエプロンを外す。僕の目の前には、仰ぐように描かれた、桜の大木。
「最後、なんだね」
「…そんな」
僕が小さく声をもらすと、先生は柔らかく微笑んだ。
「そういえば、1年の時からずっと、桜を描いていたよね。好きなのかい?」
「…ええ」
僕は逃げるように水道へ向かい、筆とバケツをばしゃばしゃと洗った。桜色がシンクに一つの筋を作り、排水口へと消えていく。手早く筆の水気を切ると、シンクの上、桟の近くにバケツと筆を置いた。
わからないよね。
小さく自嘲して、手の水を払いながら絵の所に戻った。その途中、気付かれないように視線をあげると、じっと僕の絵を見つめる先生の横顔があった。
睫に触れそうな前髪と、黒目の大きくすっとした目尻。
そんな先生の横顔に見蕩れていたら、ついさっきまで沈んでいた気持ちも不思議と消え去っていた。
「不思議な絵だね。」
「え?」
「綺麗なのに……怖く感じてしまう」
僕は俯いて返事をしなかった。
そのかわり、少し離れたところにある鞄を手に取って、未だに絵を見つめている先生に申し訳なさそうな微笑を向けた。
「…お待たせしました。」
「あ、うん。じゃあ、いこうか」
机に腰掛けていた先生が鍵を鳴らして立ち上がる。
二人で並んで美術室をでて、先生が鍵の束を回して施錠をして、他愛のない会話をしながら階段を降りてしまえば、先生とはお別れ。静かに会話して、小さく笑いあって、お別れ。
いつもと同じ、緊張と心地よさを伴う空間。そのたった数分が、その後に歩く味気ない帰路さえも輝かせていた。
僕の心を、いつも、いつも。
「…せんせ、」
学校を出て暫くした所で、月を仰いで、瞼を閉じた。耳に残る、「気をつけて帰りなよ」という先生の一言が、体に溶けこんでくれるように、できる限りの力を抜いて。