M短編2
□せめてあなたを抱きしめることができたら
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あの獣は一切物に固執しない。
恐らく今回とて、与えられた任務を忠実にこなすだけだろうと高を括っていた。
例えばそれを抜きにしても、あの獣があの男を気にいるはずがないと。
気付いた頃にはあの柔らかな黄金色の髪の男は、深淵を称えたような漆黒の瞳を持つ男の所有物となってしまった。
足元から崩れていくような感覚だ。
それまでに味わったことのない絶望感と屈辱感。
行き場のない想いに身を焦がしながら、それでもあの男が幸福であれと切に願った。
―・・あなたの涙はわたしを溺死させる。
あなたの啜り泣く声はわたしの胸を深く鋭く抉るのだ。
わたしには絶えず零れ落ちるあなたの涙を優しく拭う指がない。
わたしには哀しみに暮れるあなたの震える肩を抱き締める両の腕がない。
ただ居るだけのわたし。
ところがあの男は、常の酒場で同じ酒を煽りながらすすり泣いてばかりだ。
零すことも出来なくなった涙の原因は、常にあの獣だった。
「また、か」
「…毎日付き合せちまって、悪ぃな。カク…」
「なに、構わんて。それよりわしが許せんのはルッチの方じゃ」
あの獣の悪態を垂れれば、この男は決まって困ったような顔で微笑う。
「けど、好きなんだよ…。こんなに苦労してっけど、結局許しちまうんだ」
「…莫迦じゃ、お前さんは」
「ははっ。よく言われる」
渇いた笑いをひとつ零すと、パウリーは自身の右手で両の目を覆った。
小刻みに肩が震えているのが見え、泣いているのだと悟る。
「なぁ…どうした、ら、良い…?ど、したら、忘れ、られる…っ」
「…」
しゃくり上げる声に無言で耳を傾けていた。
答えてやる必要はない。
彼にはこれでいいのだから。
「…っく…」
―・・どうか、どうか、泣かないでおくれ。
愛しいひとよ。
「不毛じゃな、お前さんは」
勿論、わしも。
―・・愛しいひとよ。
どうか、どうか、嗤っておくれ。
あなたを抱き締めることも出来ない愚かなわたしを。
糖蜜色のカウンターに伏せたままの顔は窺い知ることは出来ない。
先ほどから自身の視界に入るのは、煌めく金髪が揺れる後頭部だけだ。
それに指先を伸ばすことに随分と躊躇った。
そうして漸く髪に指先を絡めると、そのままゆっくりと滑らせていく。
この胸に未だ燻る想いが、純粋な恋心であることに気付いたのは。
触れた指先が焼けるような熱を放っていたからだ。
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