短い夢@

□覚えてません。ごめんなさい。
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「はぁ…。」
一人残された部屋で天井を仰ぐ。つまり、名無しさんは最初からオレと「つきあってる」つもりだったんだ。「体だけの割り切った関係にしましょう」という約束だったのに、オレが違うことを言い出したっていう可能性もなくはないが、あの名無しさんの反応と、今までの様子を考えるとそれはありえなかった。
あっちが「つきあってる」つもりだったと考えると、すべてつじつまが合った。そもそも名無しさんは酔った勢いで男とやっちまう女だとは思えなかった。体だけの関係にしては、あからさまに人前でベタベタするわけではなかったが、だからと言ってオレらの関係を隠すような雰囲気もなかった。そして、何よりも。オレが感じた「愛情」は遊び慣れた女のものではなくて「本物」だったってことだ。
それなのに。

「…最低だよい。」
とにかく謝らなくては。そして、順番を間違えたものの、今のオレの気持ちは本物であることを伝えたい。どういう流れであの晩関係を持っちまったのかはわからねぇ。でも、あいつにとってオレが体だけの関係ではなかったことが、逆にいとおしさを感じさせた。このまま何もなかったことにはできるはずはなかった。

翌日、オレは昼食後に名無しさんを捕まえた。

「名無しさん。話がある。」
ここ最近は声をかければニコニコと嬉しそうにしてくれたその表情は硬く強張っていた。

「もし、謝るつもりなら、別にいい。」

「え?」

「こういうのは、お互い様でしょ。私も、勝手に自分の都合のいいように解釈しちゃったんだし。」

「…あの晩、何があったのか教えてくれねぇかい?」
何をどう、都合のいいように解釈したというのか。それに、いくら記憶がないとは言え、オレ自身が名無しさんとつきあうような発言をしていたなら、或いは、明らかに「嘘」になるようなことを言っていたなら謝らなくちゃならねぇ。だが、名無しさんはオレとは視線を合わせないまま

「何もなかったことにしようよ。」
と言った。

「私も、酔ってなかったわけじゃないし。私一人の、私の都合のいい解釈が入った状態のものを知っても、意味ないよ。私が勝手に…思い込んじゃっただけだから。」

「オレは…何かおまえに誤解させるようなこととか、嘘を言ったりしてねぇのかい?」

「…。うん。」

「おまえは、オレに何を言ったんだい?」
オレの言葉に、名無しさんの眉間に皺が寄った。

「マルコは…知らなくていいよ。」

「なんでだよい。オレは…。」

「だから、全部なかったことにしようよ。」

「無理だよい!」
立ち去ろうとする名無しさんの腕をつかむと、オレは名無しさんの顔をまっすぐに見た。

「惚れちまったんだ。なかったことにはできねぇよい。」
一瞬泣き出すんじゃないか、って顔をした名無しさんは、困ったように微笑むと、

「それはね、惚れたんじゃなくて、抱いて情が移った、ってやつだよ。考えてもみなかった相手とやってみたら、意外とよかった。そんな感じだよ、きっと。」
と言って、オレの顔をから視線を逸らした。

「ち、違うっ!」

「また、酔って同じことを他の子にもするんじゃない?」

「オレがあそこまで酔っちまったのは、船の上だからだ。外ではこんなことにはならねぇ。相手がおまえだから、気を許したんだよいっ!」

「ほら、ね?」

「え?」

「この船の上で、泥酔して気を許せる女が、たまたま私しかいなかったんだよ。だって、この船に乗る女は数人しかいないから。たまたま近くにいたのが私だっただけ。」
名無しさんはそう言うと、悲しそうに微笑んだ。

「別に、私じゃなくてもいいんだよ。」

上陸直前だってのに、その後の仕事は全くはかどらなかった。「私じゃなくてもいいんだよ。」そう言った名無しさんの今にも泣きそうな顔をが脳裏を離れない。

「そんなことはねぇよい…。」
あいつの言わんとしていることはわかる。酔った勢いで、一番近くにいた女に手を出した。それは事実だ。でも、オレだってそれなりに場数を踏んでいる。何回か抱いたくらいで簡単に惚れたりしねぇ。あの朝は勢いだった。でも、それ以降は違う。誰でもいいわけじゃなかった。やりてぇだけじゃなかった。
間違った始まり方をしちまった。あいつはオレを責めなかったけど、どう考えたってオレが悪い。でも、この気持ちが本物だとわかってほしい。
これ以上机の前に座っていても、何も進まねぇとあきらめたオレは、早々に冷たい布団にもぐってしまった。


オレの部屋のベッドに名無しさんがちょこんと座っていた。手にワインを持って、ニコニコと微笑んでいる。オレが隣に座ると、オレに寄り掛かってきた。肩を抱き寄せると、名無しさんが顔を上げる。

「好きだよ。」
優しく微笑むその顔は、ベッドの中で何度も見た顔だ。ああ。でも。好きだと言われるのは初めてだ。嬉しくて、その頬に手を伸ばそうとしたときだった。その顔が急に悲しそうになる。

「大好きだよ、マルコ。」
好きだと言ってくれているのに、なぜか名無しさんは泣き出した。ボロボロあふれる涙が止まらない。

(オレも好きだ。)
そう言おうとするのに、なぜか声が出ない。

(泣くなよい。オレも大好きだ。そんな顔をするなよい。)
そう言いたいのに、声が出ない。息ができない。苦しくて、のどが痛い。

(名無しさん、好きだ!)
金縛りにあったように、泣き続ける名無しさんの横でオレは身動きも取れなければ声を出すこともできなかった。あまりの苦しさに叫びそうになった瞬間、開いた口から一気に空気が流入してきた。

「はぁっ、はぁっ。はぁ…。」
オレはベッドに寝ていた。

(夢…かよい…。)
ゆっくりと体を起こすと、窓の外はうっすらと明るかった。冷え切った部屋の空気が頬に突き刺さる。

(なんて夢だい…。)
夢で痛みを感じねぇってのは嘘だ。本当に、首を絞められているように苦しかった。思わず自分の首に触れると、オレは息を整えながら、妙にリアルだった名無しさんの「好きだよ」という声を思い返していた。
視線や、触れてくる仕草から愛されていると感じることはあったが、好きだと言われたことはなかった。でも、夢の中で一番現実味のあった名無しさんの声に、もしかしたら、オレはすでに直接言われているかもしれないと思った。オレが覚えていねぇだけで。きっと本人に問いただしても、認めねぇだろう。でも、妙な確信があった。

「好きだ。」
夢の中で言えなかった言葉を口にすると、一番聞いてほしい人物がいない静まり返った部屋に情けねぇ声が響いた。
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