短編

□光
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僕が彼女と出会ったのは、望ちゃんと初めて西岐を訪れた時のこと。

望ちゃんは西岐城を、僕は民の暮らしを覗きに行った。


城下町は活気があり、人々の生活や心が豊かなのだとわかった。
人々は僕を見るなり仙道と分かり、食べ物を恵んだり、家に招いておもてなししようとしてくれた。
僕はそれを全て丁重に断り、気持ちのいい心で郊外までやって来た。
そこで僕は場違いに建つ古い一軒家を見つけた。
なんとなく気になって、訪ねてみた。

「こんにちは。」

開け放たれたドアから呼びかけると、住人が一人立ち上がった。

「あら…。」

中はとても狭く、今見渡せる部屋と、奥にもう一部屋あるだけのようだった。
ここには椅子と机しかない。
西岐の民は皆裕福とまではいかないが、彼らは特別貧しいようにも見えなかった。
城から離れたらこんなものなのだろうか。

「珍しいですね、こんな外れに人がいらっしゃるなんて…。」
「ここにはあまり人が来ないの?」
「ええ、何もありませんからね。」

常に目を細めて口元に笑みを浮かべる、穏やかな印象の女性。
服装も普通で、特に貧しいようには見えない。

「どうぞ、あがってください。今朝の残りですが、暖かいスープをお出ししますね。」

女性はひょこひょこと、なんとなく頼りない足取りで奥の部屋に向かった。怪我でもしているのかな。
少しして、手には湯気の立つ皿を持って戻ってきた。

「美味しい。」
「それはよかった。」

肉や魚が入っていたら飲めなかったけど、野菜が沢山入ったこのスープはとても飲みやすく、美味しかった。

「劉紫燕と申します。」
「紫燕か。僕は普賢。」
「ふげん…?不思議なお名前ですね。なんだか仏様みたいです。」
「そうかな?ところで紫燕は、ここで一人で暮らしているの?」
「ええ。私には、こういう田舎が向いているので。家族はもっとお城の近くで暮らしています。」

独り身というわけではないらしい。
でも、どうして家族と離れて暮らしているのだろう。
何か訳がありそうだ。

「実は私は、世間的にはもう死んでいるのです。」
「死んでいる?」
「ええ。私が生きていると、優しい家族がわざわざ食糧を送ってくれるのです。」

どうやら、実家には兄弟が沢山おり、自分にまでその蓄えを割かせないため、偽の訃報を送ったらしい。

「実際に、私はもう長くはないのです。」

紫燕は優しく微笑んだ。


「…ああ、じきに日が暮れますね。」
「…?」

時計はない。
窓は…東側に一つ。
西日の差し込まない部屋。
強いていえば、開け放たれたままのドア。その周辺が、薄ぼんやりと橙色をしているくらいだ。

「この辺に宿屋さんはないんですよ。今夜は泊まって行かれますか?」
「…ひとつ、いいかい。」

ずっと、違和感を感じていた。


「…もしかして君は…目が見えないの?」


細められた目、頼りない足取り、なんとなく交わらない視線。

「…?そうですね…少し前までは明るいか暗いかの判別は出来たのですが…今はそれも頼りなくて。私にはほとんど毎日が夜です。」


――まさか、彼女には見えるという概念すらない…?


「でも、あなたが来た時から、時間も関係なく明るくなったような気がします。まるであなたは太陽のようです。」
「そうかな。」
「ええ。…もしかしてあなたは、本当に仏様なのですか?」
「仏様…そんな素晴らしいものじゃないよ。」

僕が自嘲気味に笑うと、彼女は首を傾げた。

「そうですか…でも、あなたは普通の人と違う気がします。」
「僕は、道士だよ。」
「…!」

紫燕は、ガタンと音を立てて立ち上がった。

「僕は普賢…普賢真人。崑崙山の教主元始天尊さまの弟子が一人。」

「ど…道士さまが…私の、家に?」

彼女は手を合わせ、床に膝をついた。
僕も同じように膝をつき、彼女の冷たいその手を包んだ。


「スープ、とても美味しかったよ。また飲みに来ていいかな。」


彼女は目に涙を浮かべて頷き、小さく咳をした。





「望ちゃん、また下界に行こうよ。」
「お、なんだ普賢!最近多いじゃないか。」
「そうかな?望ちゃんに触発されて、僕も少しは遊びたくなったのかもね。」
「…おぬしにもサボりたい願望があったとはのう…。」


いつもの方法で元始天尊さまを眠らせ、黄巾力士に乗り込み望ちゃんと二人で下界を目指す。
最初は望ちゃんの気晴らしにちょっと連れ出すだけだったのに、最近の僕達は常習犯になりつつある。

やはり、彼女が原因なのだろう。

「いい空気だのぉー。」
「牧草地の風は気持ちがいいよね。」

姜族の村を眺めてから、木陰に降り立つ。

「普賢、おぬしも目的の場所があるのなら行けばよい。」
「…え?」
「西岐であろう?」
「…望ちゃんには、隠し事をしても無駄だったね。」

望ちゃんはフフンと笑った。

「無理をする間柄でも無いのだ、おぬしのしたいようにすればよい。」

僕は目を細めた。
望ちゃんは昔から、こういう人だった。

「わしはここで桃を食いながらまったりしておるでのぉー。」
「ありがとう、望ちゃん。」

一人で黄巾力士に乗り、僕は西岐に向かった。



「こんにちは。」

僕は返事も待たずにドアをくぐり抜ける。
いつもの部屋を通り抜け、奥の部屋へ。
ここにはスープが作れるだけの最低限の道具と、宿主の眠る寝台が置かれている。
コンロの上には、すっかり冷えきったスープが鍋に入っていた。

彼女は寝台に寝たままだ。

「普賢様…。」

彼女は弱々しい声で呟き、起き上がろうとする。

「そのままでいいよ。無理しないで。」

彼女を制すると、渋々仰向けに戻る。
紫燕は長く息を吐き、天井に顔を向けたまま呟く。

「わかるのです。もう朝を迎えられぬと。」

――やはり。

彼女の天寿もここまでと、僕も予想して今日ここに来た。

「普賢様、死にゆく凡人の話を聞いてくださいますか。」
「勿論だよ。」
「ありがとうございます。」

紫燕は、穏やかな顔をしている。

「…私は、いつ死んでもいいと思っておりました。家族のためにも働けず、国のためにもならず、ただ蓄えを消費していくだけの人生がずっと嫌で…独り立ちできる年齢になってここに移り住み、少しして家族へ訃報も送り、漸く家族に迷惑をかけずにゆっくり死に行けると思いました。」

彼女の作っていた野菜スープは、この近くで畑を持つ、彼女の事情を知る老人が恵んでくれていたらしい。

「だというのに…あなたがいらした。」

初めて飲んだ野菜スープは、どんな高級なスープよりも美味しかったんだ。

「あなたに会ってしまったから…わたしは、いま、死ぬのが怖いのです。」

もし彼女がこの世から消えてしまったら、もう二度と…。

「わたし、初めて死にたくないと、思いました。」

彼女の手は、随分とやせ細ってしまった。
僕はその手を包み込む。


「その目でも、かい?」

見えずとも、生き続けたいのか。

「はい。私は、少しでも長く普賢様と一緒にいたい。」

その声は、やけにはっきりと聞こえた。

「だから、今夜は一緒にいてくれますか?」

僕は目を閉じた。
紫燕は動かない。

「いいことを教えてあげるね。」

彼女の瞼に掌を重ねた。
暖かい。

「君はまだ生きられる。」
「…え?」
「まだ、というか、もっと生きられる。ずっと生きられる。末永くね。」
「…ふ、普賢様?どういう…。」

「君にはね、仙人骨っていうものがあるんだ。君は人間界で類稀に生まれる、仙人になれる素質を持った人間なんだ。仙人は病むこともなく、歳こそとるけど寿命はない。つまり、ほとんど永遠の命だ。」
「えい…えん…?」

紫燕は、焦点の合っていない目をきょろきょろと動かした。

「残念ながら君の目を治す術はないけど、道士として仙人を目指す修行をする身になれば、寿命という概念はなくなる。」

手を強く握りしめる。
相変わらず、僕達の視線は上手く交わらない。


「どうする?…僕と、来る?」




「へぇー、それで紫燕さんは師匠に弟子入りしたんですね。」
「そう。彼女は元々病弱だったんだ。そこを偶然にも僕が見つけたのさ。」

木吒は「ふーん」と頷く。

「でも紫燕さんは天然道士にしては病弱だったんですよね?」
「そうだね…でもその代わり、目が見えなくても一人で生きていけるだけの五感と頭脳があったみたいだよ。」
「へぇ、そうゆうこともあるんですねぇ。」

木吒は一度頷くが、それでも一番の不服は拭えない。

「それにしても、やっぱり師匠は紫燕さんを贔屓してますよ!」
「そんなことないよ?僕には木吒も紫燕も同じ、可愛い弟子だよ。」
「え〜〜?ホントですか〜〜?」
「さて!木吒、紫燕を呼んできて。物理の話の続きを進めるよ。」
「あ!師匠、話逸らしましたね!」
「何のこと?」
「師匠〜!」

渋々歩き出す木吒を見送り、僕は紫燕を仙人界に連れて行く時のことを思い出していた。
見慣れぬ女性を連れてきた僕に、望ちゃんは目を丸くしていたっけ。

元始天尊様から許可も下り、紫燕は正式に僕の弟子となった。
雲中子により全盲はそのままだったけど、彼女の死にまつわる病気は治された。


「にしても普賢、何故彼女に仙人骨があると分かっておりながら、寿命のぎりぎりまで野放しにしていたのだ?」
「うーん、そうだね…。」


僕は少し考えてみるけど、理由はやっぱり、これしかないだろう。

「僕も、ぎりぎりまで彼女を独り占めしていたかったのかもね。」


「…おぬしに独占欲があったとは…。」
「あれ?望ちゃんだって特別な仙桃を独り占めしているでしょ?それと同じだよ。」
「ぐ、ぐぬぬ…!…仕方ない、おぬしに一つやろう。」
「ほんと?ありがとう。」



「師匠!お待たせしました!」

木吒が戻ってきた。
紫燕も一緒だ。

「今日も御教授よろしくお願いしますね、普賢様。」

「フフ。じゃあ、始めようか。」


立場を変えて、これからもずっと、あなたと一緒に。





公開:2018/11/23




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