その武人、刻を渡られよ

□過去
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がばりと布団の重い音を立てて起き上がる。
何も考えられず、ここが何処なのかも状況もまるで把握できずにただ自分の身を守らなくてはという思いに突き動かされ右腿にあるはずの愛銃へ手を伸ばす。
銃がない何処か安全な所へ動かなくては、という考えになるまではコンマ数秒もなかった。とにかく明るい方へと障子を思い切り開けた。

「やだっ逃げなきゃあいつが」
自分でも分からない程のスピードで逃げなきゃあいつが来ると繰り返し、既に息すらまともに出来なくなっていた。
誰かが寄ってくる所までは分かるのだが、身体が動かないし目もぼやけてしっかりと見えない。その誰かは自分の背を摩り、何か声を掛けていた。
「主呼んでくるから」という言葉だけを聞き取り、人に迷惑を掛けてはいけないと瞬時に判断して首を振る。
「何で駄目なんだよ」
呟かれる言葉には返す余裕もなく、ただ首を振ることしかできなかった。
しばらくすると背中を摩る手が冷たいものから大きく暖かいものに変わり、その声も少し高くなる。
「大丈夫、大丈夫。ここに敵はいない、君は安全なんだよ。さぁ、ゆっくり息をしてごらん。僕の所まで意識を持っておいで。」
安心できる声と言葉に少しずつ身体が落ち着くのを感じる。


「大分、マシになったかな。過呼吸になるなんてよっぽど悪い夢でも見たのかい?」
「...昔あった事を、思い出して。まさか夢に出てくるなんて思いもしなかった。」
海羅の部屋に移動し最初に背をさすってくれた誰かの羽織を着たまま海羅と向き合う。
「昔っていうと軍人時代か。もしかして...えっと。」

「PTSD、心的外傷後ストレス障害ってやつか。後、青江の旦那がお茶を渡してやってくれって。」
「あぁ、薬研。青江はきてないの?まぁいいや、ありがとう。
PTSDか、名前をすっかり忘れていた。」
「旦那はもう少しで熱々のやかんに接吻しそうだったからな、先に寝床に行ってもらった。
朱清、あんたの昔の話は少しだけだが聞かせてもらったよ。俺っちは薬研藤四郎(やげんとうしろう)、俺っちたちも似たような時代を過ごしてきたから気持ちは少し分かる。大変だったな。」

大変だったなというその一言と頭を撫でる薬研の小さくも武骨な手が話してもいない過去のトラウマをほぐしてくれるようだった。
そんな事で慰められるほど限界まで達していたのだ。

「戦争の話は僕には分からないからなぁ...みんなが居てくれるから気持ち的な問題は少しは軽くなると思うんだけどね。でも、もしPTSDってなると今回みたいな発作がいつ何時なるか分からないからね、なんとかしてあげたいんだけど。」
朱清にはPTSDという言葉自体は聞いた事があった。その治し方までは知らないが精神的なものだ、根気がいる事くらいは分かる。
「時間なら一年半あるんです。その間に治します。気にしないで下さい、私が悪かったんですから。」
「ま、時間がかかるのはしょうがないんだが、問題はその治療法だ。あんたにトラウマを強く思い出させる事になる。トラウマに向き合わない事には治せやしないもんなんだよ。」

「今日はさっきの発作で体力的に厳しいだろうから治療を始めるのはまた今度にしよう。今日はもう遅い。隣の部屋を使っていいからよく休むんだ、布団は引いてあるし僕もこの部屋にいるから。」

隣部屋に向かおうと立つ朱清が何かを思い出したように二人へ顔を向ける。
「これ、最初に背中をさすってくれた誰かが掛けてくれてたんです。誰のものか分かりませんか。」
黒地に赤く鮮やかな裏地をした羽織を見せる。
「そりゃあ、加州の旦那の物だな。旦那の部屋ってあんたの部屋からは少し離れてなかったか?よく発作に気がついたな。」
「厠かどこかに向かう途中だったんじゃない?明日どの子が加州か教えてあげるから、話すきっかけにでもするといいよ。皺になっちゃうといけないから預かっておくよ。」

羽織を海羅に渡そうとすると薬研がこれを焚いておくといいといいながらいい香りを出している器のようなものを渡してきた。
「香炉だ、夢を見る事のないように、深く眠れるように調合しておいた薬草をいれてある。」
「お気遣いありがとうございます。おやすみなさい。」
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