小説

□to(市川)
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「ただいま」
市川は玄関先で彼を待っていた夢子へ笑いかけた。
「…おおげさだなぁ。そんな心配だった?ん?」
すぐさま抱きつく夢子をなだめるように市川は言葉を続ける。
「大丈夫だって。怪我もしてないし。
俺は、兄貴に太刀魚のキムチ鍋食べさせるまで死ねないから!」
市川は職業とかけ離れたような屈託のない笑顔を見せ、夢子の頭を撫でた。

『日本へ行かなくちゃいけない。どうしても』
ある日突然、そう切りだされた夢子は気が気でなかった。
仕事なのだろうと思いはしたものの、それとなく聞いたかぎりでは穏やかな話ではなかった。
昼間から釣りを嗜んでいると思えば、あっさりと命を危険に晒すことをしてしまうのだ、この男は。
大友という兄貴分が出来てからは、どうも彼に陶酔しているようで口を開けば出てくるのは一に『兄貴』となり、恋人である夢子は嫉妬すら覚えていた。
それでも決して離れないのは、市川を愛したからだ。
時折見せる心の奥まで射抜くような眼差し、子どものような笑顔、優しく響く声、たくましい体、自然体でいるのに滲みでる色気…
心はいつでも彼に夢中でいる。

「…夢子、ごめんな。心配かけて」
今に始まったことじゃないでしょう、彼女がそう返せば市川は苦笑いをする。
「ま…うん。そうなんだけど。
俺にはこういう生き方しか、出来ないから…」
分かっている、と彼女は市川を見つめる。
「だいぶ愛想つかれてるかもしれないけど、……好きだよ、夢子」
市川はそう告げると、彼女の頬に手を沿え唇を重ねた。
唇から伝わる甘い熱は、互いの心をとろけさせそうで。何度もそれを感じたいと求めるようにキスを繰り返した。
やっと唇が離れた時には、お互い心の奥まで熱を帯びていた。

「…今日は、離さないからな」
市川は薄く笑みを浮かべながら、シャツのボタンに手をかけそう言った。
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