長編
□無知の知
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あの日見た光景を、わたしは生涯忘れることはないのだろう。
『ベン、さん』
航海士と打ち合わせを行っているベンに向けてかけられた小さな声。
鈴が鳴るような空気の震わせ方は、背後を振り返らずとも声の主をベンに伝えた。
呼ぶだけで「あァ、もうそんな時間か」と無意識に壁掛けの時計へ目を向けるベン。
おれの部屋で待っいてくれとだいぶ首の痛くなりそうな角度で視線を下げ発した。
声の主も負けじと首の痛くなりそうな角度で見上げ、小さく頷いて航海室をあとにする。
最近名無しさんは敬語を使わない言葉の練習をしている。
誰から命令されたわけでもなく、先生役を買って出てしまった自分もよく分からないとベンは思っていた。
彼女は未だに謎が多く、拾ってきた本人は今はまだそのままでいいの一点張り。
分かっていることといえば、当初から敬語は話せること、朝起きて夜寝るという習慣はあること、ある程度の読み書きはできるというくらいだ。
何を思ったか敬語禁止を突如宣言した頭の命令を忠実に守り、敬語以外の言葉遣いを全く知らなかった彼女にそれを教え、ついでに一般人として生きるのに不自由のない常識も少しは教えてやっている。
その合間には甲板に出てクルーを相手に鍛錬していたり、頭に呼ばれては半ば強制的な昼寝にと、細すぎる身体に似つかわしくないハードワークだとベンは思っていた。
その上更に、海賊はほぼ船の上での生活のため航海士は必須だとどこかから聞きつけた彼女から、航海士の勉強は必要ないのかと問われた。
まだ勉強するのか?とクルーに言われていたが、意味はあまり分かっていないようだった。
#
わたしはあそこから出たことはなくて、世間のことは何も知らない・・・らしい。
そういうのは"世間知らず"と言うのだとこの間教わった。
自分の話している言葉が"敬語"という種類のものだと知ったのも最近の話だ。
___未だに、
何故ここに、この船に拾われたのだろうか、
と、
不思議な気持ちになることがある。
夢なのだろうか?とも。
この夢は、一体いつ覚めるのだろう。
名無しさんが拾われて半年経とうとしていた。
この船のクルーは、皆んないい人だ、と名無しさんは感じている。
いい人の定義を問われれば本で見たそのままを答えることになる名無しさんだったが、何か失敗をしても、叩いたり怒鳴ったりされたことは一度もなく、彼女の嫌がることは誰一人としてしてこない。
仕様がないなと、笑われることはあっても。
以前のように固く冷たい牢屋に閉じ込められることも、食事抜きにされることもなかった。
本人は身体が少し重くなってきたと思っているが、周りはまだまだだと食べきれないほどの食事を与えられる。
何故、なのだろうか?
いつか、されるのだろうか?
牢屋に閉じ込められる?
意味もなくぶたれたり食事抜きになったり、人殺しが仕事の日々に戻る?
皆んなは笑って毎日を楽しそうに生きていて。
不出来なわたしは、できる限り失敗をしないように気をつけなければいけないのだと。
"命じられた"ことを正確にこなさなければならないのだと。
そうしなければやはり牢屋に閉じ込められるだろうし、ここでもまた、失敗作だと言われるのかもしれない。
それはとても・・・
「待たせたな」
『・・、・・大丈夫、です』
テーブルとセットで置かれている趣味のいいアンティークな椅子に腰掛けていた名無しさんは、かけられた声に少し慌てた様子で顔をあげた。
敬語禁止も忘れるような取って付けた返事に苦笑したベンを見て反省する。
敬語ではない話し方は常に使うこと、と言われている名無しさんだが、勉強中はやはり内容に気を取られていることが多く、日常ではクルー達の話を聞く役回りばかりで自分の話し方にまで気をかけていられないようだ。
今日は航海士の勉強をということで、前回の復習を口にしながら数冊の本をデスクに並べるベン。
それを聞きながらその中に見慣れぬハードカバーの本があることに気づいた。
"Snow White and the Seven Dwarfs"と書かれている。
『しら、ゆきひめ・・?』
パラパラと捲ると、それは童話の本だと側でベンが説明する。
正確には、白雪姫と7人の小人たち、というらしい。
今回の宿題はコレだと告げられたので素直に頷く名無しさん。
子供は小さい頃に童話やあらゆる絵本で感情や他者との接し方も学ぶものだ。
傍に同じ年くらいの子供がいれば話は早いのだがな、とベンは思っていた。
任務と鍛錬と実験だけを繰り返していた少し前。
本を読んだことすら数える程度だった。
基本的な文字はできる、と思っている名無しさんだが、難しい単語までは分からないわたしを考慮して、難しい単語の出てこない本を用意してくれているのだと思う。
本人に確認したことがないので分からないが、そういうことのできる人なのだとここ半年接していての彼の印象だった。
自分は最近ようやく難しい文字や敬語ではない単語を覚えてきたというのに、どうすればそんな器用なことができるのか、と、名無しさんは理解に苦しんでいる。
それにしても、この船に童話と呼ばれる類いの本があることには流石の彼女でも少し不思議に思えた。
到底彼のような人が読むとは思えないが。
「この間寄った島で買ったんだ」
『・・・・』
・・・・・そんなに顔に出ていた、だろうか?
ベンを見ていただけなのにそう答えが返ってきて、顔には出ないものの少し驚く名無しさん。
・・・そっか。彼は心を読むのも上手いんだ。
人間は計り知れない。
脳にインプットしておこう。
名無しさんの脳には心を読めるとんでもない人がいる、と刻まれた。
暫く航海士について、海図の読み方について教えてもらっていると、部屋のドアがノックされた。
誰?
ベンと2人ドアの方へ視線を投げると声の主が入室してくる。
「副船長、よろしいですか」
「あァ、入れ」
入室をしてきたのはクルーの1人で確かシアーズという。
この船は人数が多くて、一人ひとりの名前を覚えるのも一苦労。
元々人を名前で呼ぶ習慣がなかった名無しさん。
半年近くかかってようやく名前と顔が一致してきたところだ。
たぶん、合っていると思うのだけど、自信は全くない。
「名無しさん、そろそろお頭を起こす時間だ」
シアーズはベンを見ていた視線をこちらに移しそう告げた。
それに黙って頷くと、ベンを見る。
「あァ、今日はここまでだ。お頭を起こしてやってくれ」
何も言わなくても通じたらしい。
やはり彼は心を読めるんだ。
凄いな。どうやるのだろう。
そう思って、
それをまた一つデータとして脳に刻んだ名無しさんは席から立ち上がる。
勿論宿題の本を持って行くのも忘れない。
この船にきてから、わたしの仕事の一つになっている朝お頭さんを起こすという作業。
あとは勉強の他に、厨房での後片付けとか洗い物とか洗濯とか掃除?
お頭さんのお酌も仕事に入るのだろうか?
それから、
コンコン
「お頭、入ります。」
シアーズが入室を告げるが、やはりというかなんというか、返事はない。
ここに来るまでに、昨晩名無しさんが部屋へ戻ったあとも、朝までみんなで飲んでいたんだとシアーズから聞いていた。
入ると、盛大に鼾をかいて大の字にベッドに転がるお頭がいる。
朝は気づかなかったが、改めて入ると部屋は少しお酒の匂いがしている気がする。
それにしてもわたしが一緒に寝ているときは、寝相は悪くないと思うのに、この違いは何なのだろうか?
どちらがちゃんと眠れている状態なのか・・少し気になった。
「やっぱり起きないな。名無しさん、あとよろしく」
ベッドサイドの簡易テーブル。
水差しからグラスに注ぎ、そこに置くと声をかけてきたシアーズ。
名無しさんが頷くと彼は退室していった。
お互いこれは毎日の作業なので手慣れたもの。
『お頭、さん』
「・・ぐァー・・」
呼びかけてみても返事はない。
これもいつも通り。
あ、鼾が返事ということはあるのだろうか?
首を捻り真面目にそう考える名無しさんは、靴を脱いでキングサイズのベッドに乗り上げた。
軽く肩を揺すって声をかける。
・・・起きない。
この任務には毎日試行錯誤を繰り返しているが、中々正解には辿り着けていない。
呼びかけてもだめ。
ペシペシと叩いてもだめ。
結構激しく揺すってもだめだった。
前に、結構強めに殴ったこともあったが、一瞬目を覚ましてまたすぐに寝てしまった。
覇気付きで殴ってみても同様で。
武器使用可だろうか?
ふと思いつく。
まだ試したことはない。
ただ、これは防御をしてくれないと本当に切れてしまう。
お世話になっている船の船長にそこまでして追い出されないだろうか?
ベン辺りなら許可しそうな気がしなくもないが。
うーん・・・・
仰向けに転がる彼に馬乗りになりながら次なる戦略に悩んでみる。
見下ろした彼はとても気持ち良さそうに寝ているし、このまま起こさなくても、という気持ちがないわけではないが、これも仕事だと思い直す。
それにしても、いつ見ても綺麗な赤い髪だ・・と、名無しさんは思う。
目に眩しいほど鮮烈な輝きを放っている。
彼のような人間にはよく似合っていると表現すべきなのだろうか?
燻んだようにはっきりとしない自分の髪色と比べては、少し羨ましいと感じる。
それと、男性の髪はサラサラしていないと聞いたことがある。
だが彼は指を通せば滑り落ちるくらいサラサラとした手触りがする。
まさか男性ではない?
前髪をサラリと避けて手触りに浸る。
あぁ、そういえば、今は敬語を使ってはいけない訓練中だったと思い出した。
みんなのことも敬称なく呼び捨てで呼ばなければならない、と指示されている。
クルー達は、お頭さん達幹部と呼ばれるメンバーに敬語を使っているからついいつも通り敬語になりがちで、あまり成果は出ていないのだが。
『・・・・シャン、クス』
小さく呟いて練習してみる。
どうせ起きないし、本人相手に少しでも慣れておこうと思った結果だ。
『・・っ、・・・』
吃驚、した。
急に伸びてきた太い腕は、馬乗りになっている名無しさんの腕を取り自らの方へと引いた。
胸に倒れる形になった小さな身体は、抵抗する間もなくボスっと収まり抱き締められている。
・・・起きた?
「やればできるじゃねェか」
『・・・お頭、さん?』
名無しさんを身体の上に乗せたまま、上半身を少し起こし、背に枕を挟みそこに凭れるシャンクス。
また背中に戻ってきた彼の手。
彼の胸にぺたりと頬を付けたまま見上げると、眠そうな瞳と目が合った。
「ちげェだろ?ほら、もう一回」
『・・シャンクス、さん』
「名無しさん」
咎めるように呼ばれる。
分かっている。敬称なしがご所望のようだと。
しかし付けるのが通常の私からすると、物凄く意識して発言しないと難しいし、違和感が拭えない。
・・・あぁ、だからこその任務で仕事で宿題なの、か?
『・・・シャンクス』
「あァ、よくできたな」
おはよう、そう言って今度はちゃんと半身を起こすと。
流れるように額におはようのキスが降ってきた。
お頭さんの頬にそれを返すと、彼は満足そうに笑っている。
どうやら目は覚めてきたらしい。
いつもはどうやっても起きないのに、なんで?
彼の上から降りて、シアーズが用意してくれている水を渡す。
グイっと一息で飲み干して口を開いた。
「朝メシ行くか。名無しさんはメシ食ったのか?」
『もうお昼。朝は食べた。お昼はまだ』
「だっはっは。もうそんな時間かァ。じゃあ昼行くか」
こくり。
頷いてから、ソファに無造作に投げられていたマントを取りに行く名無しさん。
ベッドに胡座をかいているお頭さんにそれを巻きつけて前で留めると、笑ってされるがままの彼と目が合う。
名無しさんはいい子だなァと髪を撫でられるのは、心がぬるく温められる気がするから好きだと思った。
「名無しさんは撫でられるのが好きだな。猫みてェだ」
撫でてくれる温度が心地よくて。
無意識に擦り寄っていたらしい。
慌てて逃げるようにベッドから降りる名無しさん。
彼はそんなわたしを見ても、いつものように笑っていた。
この感情の名前は、前はよく分からなかったけれど、こういうときに彼が口にする"好き"と言う言葉。
それを参考に、わたしは撫でられるのが好きなのだと思っている。
あたたかい?
ずっと撫でてほしい?
好き?
一体どれが正解なのだろうか?
今度誰かに聞いてみようか。
そういう本がないかベンに尋ねるのもいいかもしれない。
_おわり
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