他殿
□貴女の他には何も要らない
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あの日は、ただ普通の何気ない一日だった。
「名無しさん。」
「光秀様…お疲れ様です。」
「よく働いていますね。」
春一番が吹いた、次の日のことだ。
洗濯をする為の水を井戸から汲み上げて、愛しい声に振り向く。
書状を手に柔らかな笑みを向けるのは、大好きなあの人。
先刻まで軍議に明け暮れていた広間からそのまま来たのだろうその人は、私を見つけて嬉しそうに笑う。
「今日の勤めはこれで終わりですか?」
「はい!洗濯が終わったら後は夕餉の支度までは特に…」
「そうですか。では息抜きに城下へ参りませんか。」
光秀様からの思わぬ誘い。
毎日お忙しそうな光秀様を見ていたから、不安と期待の入り交じった表情で光秀様を見てしまう。
「えっ…いいんですか?」
「ええ。少し買い求めたい物がありまして。……というのは言い訳で、ただ名無しさんと散歩がしたいと思ったんです。」
「っ…行きたいです。」
「そう嬉しそうに言われると困りますね…」
「え?」
「可愛らしいあなたを見ていると所構わず抱きしめたくなってしまいます。」
「…っ、もう…やめてください…」
からかうようにくすくすと笑った光秀様は、待っています、とそう残して私の前から立ち去る。
私は急いで洗濯を済まし、その背中を追った。
「光秀様…触れてはいけません…」
「…っ、あなたに触れられないのが、もどかしい…」
何故こんなことになってしまったのだろう。
あの日、城下になど行かなければ。
私が、光秀様を置いて逃げなければ…。
後悔しても仕切れぬ想いでいっぱいだ。
目の前の褥で横たわりながら私へ向けられる手を、握ってあげることも出来ない。
悲しげに眉を寄せる光秀様を抱きしめてあげることも出来ない。
「っ、ごめんなさい…」
「謝らないでください。きっと治りますから。」
涙ぐむ私を見て切なげな微笑を零した光秀様に、もう一度謝りそうになって口を噤む。
私はあの日のことを思い出していた。
あの日、城下に降りた私達はまず光秀様の買い物の為古書店に寄った。
その後はただ普通の恋仲のように、簪や反物を見て周り、最後に甘味屋へ。
「あの噂知ってるか?」
空いた椅子に座った時、隣に座っていた男性が連れていた女性にそう話したのだ。
光秀様も気になったのか注文をしながらも耳を傾けているようで、私も同じように耳を澄ませる。
「なんだい?」
「海の外からよ、変な病気が流れてるらしいんだ。」
「変な?」
「人伝で聞いたんだけどよ、体が溶けちまうらしい。」
「ええ?!…物騒だねえ…」
「しかもな、ただ溶けるんじゃなく、好いた異性に触ると触った所から溶けていっちまうんだと。」
「なんだか怖いねえ…尾張には蔓延しないといいけど…」
(好きな人に触れたら…溶ける…?)
そんな奇妙なことが、本当にあるのだろうか。
もしあるのだとしたら…。
「名無しさん。」
「…!」
「あんみつなんてどうですか?」
「え…」
「顔が険しくなっていますよ。…この事は信長様の耳にも入っています。名無しさんは心配しないで。」
「…はい。」
光秀様はそう言って私の手を握る。
…でもそれが光秀様が私に触れた最後だった。
「疲れましたよね、少しお休みになられてはどうですか?」
「ありがとう、ございます。」
申し訳無さそうな表情を浮かべる光秀様を残して部屋を出る。
あの後、何者かに後をつけられていると気づいた光秀様は、とある店へと入っていった。
そして裏口から私に逃げるようにと伝えて、また店を出ていった。
その後はただ城への道をひた走った。
信長様に…いや、この際秀吉様でも犬千代でもいい。
誰かにこのことを伝えなければならないと思ったからだ。
嫌な予感がする。直感だった。
そして、犬千代に連れられて帰ってきた光秀様は、ぐったりとした様子で膝をついた。
その後の事は、正直あまり覚えていない。
目を覚ました光秀様の手が私の頬に触れた瞬間のどろっとした感触。
覚えているのはそれだけだ。
私が驚いて反射的に光秀様の手首を掴んで、光秀様の苦しそうな声が聞こえて。
「すみません…」
そう言って歪んだ眉。
……光秀様の右手の半分が溶けてなくなっていた。