他殿
□狐の恩返し
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「ごめんね…」
謙信様の悲痛な声がそっと零される。
「謝らないでください…決まったことですから。」
私は笑って見せたけれど、ちゃんと笑えているのだろうか。
「私だって本当は君と離れたくはないんだよ…」
悲しげに下げられた眉。
辛そうに歪む表情に胸が締め付けられるけれど、ここで引き止めてしまえばきっとこのお方は私を優先してくれるから。
「待っています。この子と二人で。」
「名無しさん…」
…そう言って、腕の中で眠る子を抱きしめた。
「…茶番は終わりましたか?」
「あいたっ!」
「ふふっ…」
スパーン!と小気味良い音がして、謙信様が頭を抱えてしゃがみこむ。
うう…と唸り声が響くここは城門の外だ。
私は眠りから覚めない子狐を抱えながら、目の前で行われた光景を見て思わず笑う。
「全く…今生の別れでもあるまいし毎回毎回貴方は大袈裟なんですよ…」
「ひどい…兼続は私と名無しさんの仲を引き裂く鬼だ!」
「はぁ…貴方に言われたくはありませんが…。名無しさんとの時間は十分に取りました。さっさと行きますよ!」
「嫌だ!やっぱり名無しさんも…」
「そもそも名無しさんを同行出来なくしたのは貴方の所為でしょう!子供みたいな事言っていないで早く来なさい!」
「…分かったよ…名無しさん、待っててね。すぐに帰ってくるからね。」
「ふふ、お待ちしてますね。お気をつけて…」
何度も振り返りながら遠くなっていく謙信様の姿。
私は何故こうなったのかを思い出していた。
あれは三日程前の事だったろうか。
いつもの様に兼続様の目を盗んでの、謙信様との逢瀬。
散歩に行こうと誘われた先でのことだった。
「おや…?」
緩い山道を歩いていた私達の目の前に小さな薄茶色の物体が見えたのだ。
それに気付いた謙信様は首を傾げ、そしてすたすたとそちらに向かって歩いていく。
私も恐る恐る謙信様のあとをついて行き。
「…狐だね。」
「狐…ですか?」
その物体の前で足を止めた謙信様の後ろから顔を出し、謙信様の言う狐を垣間見た。
「わ…あれ、もしかしてこの子…」
「うん…怪我をしているようだね。あらかた人間が仕掛けた罠に嵌ったか、野犬にでも目をつけられてしまったのかな?」
小道で蹲る狐はまだ小さく、親とはぐれてしまったのか辺りには仲間と思われるものもいない。
前足に付いた傷口から血が地面まで流れているけれど、出血自体はもう止まっているようだった。
「かわいそうに…手当をしてあげないと。」
「うん、そうしよう。一先ず城へ戻ろうか。」
「はい。」
ゆったり微笑んで帰城を提案する謙信様に一つ頷いて、私は手拭いを取り出し抵抗無くぐったりした子狐をそっと包んだ。
「…またですか。」
ここに来て何度も聞いた兼続の呆れ声。
城に戻ってすぐ、私達を見つけた途端怒りの表情から驚いた表情に変わった兼続様の目がじと…と謙信様を捉える。
「道を歩いていたらね、この子狐が倒れていたんだ。ほら、怪我をしているし手当を…」
「ほう…道を、ですか。」
「あ…」
「今日は執務室に篭もり礼状を書くと仰っていたのでは?」
「ほら、お日様も出ているし少しの間散歩をね?」
「私が貴方を探し始めてから既に一刻以上経っていますが、貴方はそれを少しと仰るのですか。」
「あ、あの!」
今にも兼続様の後ろから般若が見えそうで、堪らず口を挟む。
「私が手当をしたいと申し上げたんです!私がきっちり手当もします。怪我が治るまでの間、お世話もします!なので…その…」
「名無しさん…」
「…はぁ。何故こうも貴方方は似るんでしょうね。駄々をこねる子供が増えたようで頭が痛いです。」
「すみません…」
兼続様が怒っていることは重々承知だ。
けれどこのままでは家族に会えるどころか、命さえ危ういのだ。
お願いします、と頭を下げると頭上で兼続様がため息を吐き、声色は少し優しくなった。
「頭を上げなさい。私はその子を連れ帰った事を怒っているのではありません。殿が仕事を放って遊び呆けていた事を怒っているのです。」
「兼続様…」
「名無しさんはその子の手当と世話を頼みます。」
「ありがとうございます…」
優しげな表情でそう言った兼続様に、もう一度頭を下げる。
確かめるように頷いた兼続様は次の瞬間には謙信様に視線を戻し、引き摺るようにして執務室へと向かわれた。
「あっ…兼続待って、ねえ!」
「貴方の仕事はたんまりと残っていますから、今日は寝かせませんよ!」
「それは名無しさんの口から聞きたか…あいた!」
謙信様の悲鳴だけを残して。