奥州

□記憶を愛す
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人の記憶というのは所詮淡雪のように消えていくものだ。

幼かった頃。
悪戯をして叱られ涙した頃。
初めての戦。
政宗様に仕えた頃。

成長と共に消えてしまう記憶は大切だったものまでも消し去っていく。
朧げな記憶を手繰り寄せても正解など無く、自分のいい様に都合良く捻じ曲げていくのだ。
…人間の脳というのは、そういうものなのだ。


…男装をした女子と出会った頃。
己の当たり前を崩された意志の強い瞳。
平凡な女子と同一であるというのに、惹かれたあの頃。

初めての接吻。
初めての交わり。
初めての喧嘩。

「…小十郎、様?」

目の前にいる名無しさんという女は、何も覚えていなかった。

何を言っているのかと、一度は理解できなかった。
だが俺を見る表情が嘘ではないと告げていた。
何も知らずに微笑む名無しさんは俺が知っている人物と変わりないはずなのに、その本人は俺を忘れているのだ。

俺の存在、ただそれだけを。

…あの日の事は鮮明に覚えている。

「名無しさん、今朝伝えた政宗様への書状の件だが…」

「…えっ…」

「ん?…まさか、忘れていたのか?」

「も、申し訳ございません…今朝、ですか?」

朝餉を終えて直ぐに伝えた事項を名無しさんはすっかり忘れていた。
忘れていた、というよりも初耳だと言わんばかりの表情で。

「急ぎだと言っただろう。」

「ええと…すみません。ぼんやり、していたのでしょうか…今すぐに取り掛かります!」

「いや、もういい。今からだったら俺が動いた方が早い。」

「…申し訳、ございません…」

困惑したような表情で頭を下げる名無しさんに腹が立ったといえば、そうだと思う。
これが、初めての事では無かったからだ。

今までずっと傍で俺を支えてくれていたはずの名無しさんが、急にだ。
仕事を任せても何かひとつは忘れてしまう。
三つ任せれば二つ。
四つ任せれば三つ。

何かしらの案件を頭の中の記憶から消し去ってしまう。
あまりにも酷い。
そう思い何度か話をした事もある。
だがその度に申し訳無さそうに眉を下げる名無しさんを見てはおかしいと思わずにはいられなかった。

「全く何度目だと思っているんだ。気が緩んでるんじゃないか?」

「っ…それは…」

「仕事をしたくないのなら出ていきなさい。中途半端な仕事しか出来ない奴はいらないんだ。」

今まで完璧に仕事をこなしてきた名無しさんがこんな風に失敗を繰り返す事に疑問を持ちつつも、信頼をして任せていた仕事を忘れてしまう名無しさんに苛立ちが募っていた。
昔の小姓になりたての頃のように、少し口調を強めて責める。

「…でも…」

「言い訳をするな。」

「っ…小十郎様には分かりません!」

「…!」

「聞いた覚えが無いんです…小十郎様は嘘はつかないって分かっているから、きっと私に問題があるって…何度も自分を見つめ直しましたっ…」

「……」

「でも……忘れないように何度も頭の中で繰り返して…なのにいつの間にか無くなっていて…叱られる理由も分からないんです…。私だって…っ…小十郎様には…きっと分かってもらえない…」

「…っ、名無しさん…」

名無しさんの感情が溢れてしまった瞬間だった。
しまったと思ってももう遅い。
涙を流しながら呼吸を乱す名無しさんに狼狽える。

「っは…はぁっ…」

「名無しさん…?どうしたんだ…!」

肩に触れた瞬間崩れ落ち、すんでのところで畳に手をついた名無しさんの呼吸がおかしい。
息を吸うことすらも危うい程の浅い呼吸を何度も繰り返している名無しさんに頭が真っ白になった。

「名無しさんっ…しっかりしなさい!」

「もう…嫌…」

掠れた声でふいに呟いた名無しさんの瞼が閉じられ、力を失った身体が俺の方へと傾く。
咄嗟に抱きしめた身体は以前抱いた時よりも小さく、そしてその言葉が俺が知る名無しさんの最後の言葉だった。
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