ワンピ本

□アイを与えて共に泣こう
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 何がクリスマスだクソ喰らえ。
 嫌味のように一ヶ月も前から準備しやがって。
 雪こそ降らないものの風は冷たく、ビルの隙間を吹き抜ける風がコラソンのコートを揺らしていく。
 深く吐き出す息は白い。
 マフラーに顔を埋めようものなら、熱気で黒縁の眼鏡が曇るから困るものだ。
 やや前屈みになって風を遣り過ごし、今日の夕飯はどうしたものかと商店街に向かう。
 冬の太陽は仕事をサボって、もう月にバトンタッチをしたようだ。
 薄暗い空には小さな月が見えはじめている。
 雲の見えない空は月の存在をより大きく見せ、コラソンは明日は一段と寒くなりそうだと思った。
 タイムセールは16時から。
 普段であれば職員室でバタバタしている時間だが、冬休みである今の時期はゆったりとしたものだ。
 毎日学校に行くことはないし、夕方を過ぎて学校に残ることもない。
 だから今日こそは、いつも売り切れて買えずにいた食材を買える。
 あと30分でタイムセールがはじまる時間だが、今から向かえばまだ残っているだろう。
 料理が好きだからこそ、こだわりの食材で作りたい。
 コラソンは常日頃から思っているものの、タイムセールの時間までに仕事が終わるはずもなく、専業主婦が草の根も残さぬ勢いで買い漁ってしまう食材を手に入れられないでいた。
 他の店で買えばいいだけの話なのだが、通い慣れている店の味が好きなコラソンは、今から向かう店以外の選択肢などなかった。
 クリスマスに合わせてディスプレイも変わった店は、それぞれ綺麗に飾りつけがされて、色とりどりのライトがあちらこちらで光っている。
 サンタクロースの帽子を被ったテディベアがショーウィンドウ越しにコラソンを見つめて誘うが、その大きさと足元に置かれている値札を見てコラソンは首を横に振った。
 彼女でもいるなら可愛らしいぬいぐるみのひとつやふたつ、いや、彼女が望むだけのものを与えたかもしれない。
 けれど現実は残酷なもので、女性と出会う機会があるのは職場である学校でしかなかったし、コラソンが通う学校の教員は揃いも揃って個性が強すぎる。
 だからあの中から恋愛対象を選べと言われても、とてもじゃないが選べそうにない。
「はあ…、むなしい…」
 学生時代はまだ彼女と呼べる相手もいたが、何故か長続きしなかった。
 縁があればいつか相応しい相手が廻ってくると考えていたコラソンだが、三十路に足を踏み込みかけている今、もう廻り合いに期待することすらむなしく感じてしまう。
 つぶらな瞳でコラソンを見つめていたテディベアから目を逸らし、人の流れに乗ろうと足を進めた。
「ぅわっ!」
「あっ、わりィ! 大丈夫か?」
 トスッと小さな音が鳴る。
 よそ見をしていた所為で目の前に立っていた少年に気づけなかったコラソンはその少年にぶつかってしまい、反動で倒れそうになった少年を慌てて抱き留める。
 少年が倒れなかったにも関わらず音が鳴ったのは、少年の鞄が落ちたからだ。
 鞄を拾い上げたコラソンがすまなそうに少年に渡すと、見るからに高そうなロングコートを纏ってブランド物の鞄を持った女性がコラソンに近づいてきた。
「やっと見つけたわ」
 コツコツと響くヒールの音がやけに大きく耳に響く。
 少年を探していたのだろうかと思ってコラソンが女性を見つめれば、女性はコラソンを見て薄く微笑んでいた。
 ヤバい、何かがコラソンにシグナルを送る。
「よくも今まで私にこの子を押しつけて逃げてくれたわね」
 女性の声は大きくないはずだ。
 それぞれの店から流れる音楽や雑踏の音の方が煩いはずなのに、今はその音が一切聞こえずにいる。
 その所為で女性の声はやけにクリアにコラソンの耳に届いた。
「今度はあなたがこの子を育てて頂戴」
「………は…?」
 どうしよう、言っている意味が理解出来ない。
 誰かと勘違いしている女性にそれを伝えようとすれば、先手を取った女性の手のひらがコラソンの頬を張った。
「…ッ!」
「酷い人。自分の子供も解らないの? あなたの子供よ。責任取ってこれからは最後まで面倒見て頂戴」
 言いたいことだけを伝えると、女性はヒールを鳴らして人混みに消えていく。
 女性が去るとコラソンの耳に先ほどまで聞こえていた周囲の音が戻ってくる。
「イ…テテ…ッ」
 張られた頬が冷たい風に晒されてやけに痛い。
 目の前の少年が困ったように笑い、頬を押さえるコラソンを見上げた。
「アンタ…、おれの父親…?」
 薄いパーカー一枚にデニムのパンツ、使い古した靴は既に端が破れかけている。
 今の時期にこんな格好で寒くないはずがない。
 先ほどの女性とは大違いだ。
「残念だが違う…」
 コラソンはそう答えてやることしか出来なかった。
「だろうな、まだ若そうだし。アンタも災難だな…」
 それはこの少年こそ合う言葉ではないだろうか。
 よく見てみれば、パーカーの隙間から見える少年の肌にはいくつもの痣がある。
 虐待と育児放棄。
 その言葉が頭に浮かんだコラソンは堪えられないといった表情で首に巻いていたマフラーを取り、代わりに少年の首に巻いて傷痕を隠した。
 コートも脱いで着させてやろうとすれば、少年は慌てて腕を張って距離を取ろうとしてきたが、コラソンは少年の腕を強く引いて無理矢理にコートを着させた。
「これじゃ、アンタが風邪引いちまうっ!」
 少年は嫌がってまだコートを脱ごうとするが、コラソンは少年の頭に手を置いて力を込めた。
「うるせェ…。黙って着とけ」
 低い声に叱られたのだと思った少年がビクリと身体を震わせる。
 コラソンはその様子に何も言わずにくしゃくしゃと少年の頭を撫でてやり、胸ポケットに入れていた煙草を取り出して銜えた。
 早く煙草を吸って落ち着きたいところだが、生憎とこの地区は禁煙しなければならない地区だ。
「飯食いに行くぞ」
 冷たい少年の手を引けば、コートに足元まで覆われた少年が慌ててコラソンの後を追う。
 歩幅を狭めてゆっくりと歩き、コラソンは夕食前の時間でまだ混雑していないレストランに少年を連れて入った。
「取り敢えず、何でも好きなもん頼んでくれ」
 長椅子に腰を降ろしたコラソンが、テーブルに置いてある灰皿を引き寄せながらそう言い、少年にメニューを渡した。
 煙が少年にかからないように煙草を吸い、コラソンは深い呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻そうとする。
 落ち着きを取り戻せば、沸き上がってくるのは怒りだ。
 言いがかりで少年を押しつけられたからではなく、虐待と育児放棄をしていた親に対しての怒り。
 イライラを吐き出すように一気に溜めていた息を吐き出すと、洩れた声に少年がまた身体を震わせた。
「あー…、先に何か飲むか? あ、ドリンクバーあるから、それにするか」
 この少年は今まで母親の顔色を窺いながら生きてきたのだろう。
 だから他人であるコラソンの行動や心情にも敏感になっている。
「そうだ。お前の名前を教えてくれよ。おれはコラソン、よろしくな」
 なるべく優しい口調と表情を心がけて、コラソンは少年に手を伸ばした。
「…ロー…。おれの名前…」
 ぽつりと呟いたローが恐る恐るコラソンの手に触れる。
 まだ冷たいローの手を握って反対の手でポンポンと撫でたコラソンは、ニッと笑って見せた。
「飯食おうぜ、腹減った。ローも付き合え」
 自分では何も決められないローの代わりにコラソンが色んなメニューを注文していく。
 多すぎると解っているが、ローが何を好きで何を嫌いか知らないコラソンは、聞いたところで遠慮して答えないだろうローを見越して色んな種類を注文した。
 残りは持ち帰りが出来ることを知っているから注文したのだが、テーブルを覆いつくした料理の多さに流石のコラソンも見ているだけで胸焼けを起こしそうだった。
「コラソンさん…。おれ…、こんなに食えねェ…」
 残りは後でお持ち致しますね。
 営業スマイルが完璧なはずのウエイトレスの笑顔も引き攣っていた。
「コラさんって呼んでくれ。大丈夫だ、残りはテイクアウトするから、ローは好きなもんを好きなだけ食ってくれ」
 嫌いなものはあるかと聞けば、ローは首を横に振る。
「でも、パンがないのは嬉しい…」
 ローが小さく呟いた言葉に、同じものが嫌いなんだなと伝えようとしたコラソンだったが、それは次に告げられたローの言葉で何も言えなくなってしまった。
「おれ…、毎日テーブルに置いてあったパンだけ食べてたから…」
 育ち盛りの子供にそれはないだろう。
 テーブルの下で拳を握りしめたコラソンは、泣きそうになる。
「あ、でもたまにコンビニのおにぎりがひとつ置いてあって、あれは色んな味があるから好きだった」
 ダメだ、泣く。
 ローの生きてきた世界に堪えられなくなったコラソンが、涙を誤魔化すように目の前のスープを飲み、そして吐き出した。
「アッチイィーッ!」
 ボタボタと顎を伝ったスープがテーブルに敷き詰められた料理に垂れていく。
 それだけではなく、目の前のローにまでスープが飛んでしまっていて、コラソンは慌てて紙ナプキンを取ってローの顔を拭いた。
「すっ、すまねェ、ローッ!」
「クッ…ふ、ははは…」
 顔を拭かれたローが初めて笑って見せた笑顔は年相応の少年の笑顔で、色んな感情が溢れだしたコラソンの涙腺が崩壊した。
「コラさん…? 何で泣いてんだよ…」
「バカヤロー…。スープが熱すぎたんだ…」
 いいから早く食えと言ったコラソンだが、料理の一部はコラソンが吐き出したスープが飛び散っている。
 それをローの前から避けてテーブルの端に置いてある料理と入れ替えようとしたコラソンの手を、ローがそっと掴まえて止めさせた。
「これ…、全部美味そう」
「おいっ…、ロー…」
 ローの指が拭き忘れて濡れているコラソンの唇から顎を伝い、スープの汚れを拭ったローがその指を舐めて見せた。
「おま…っ、何やって…!」
 会ったばかりの他人で、まして少年であるローがする行動ではない。
 コラソンが驚いて口をパクパクさせていると、ローが先ほどコラソンが飲んだスープのカップを手にした。
「これ、飲んでいいか?」
「え…、ああ…」
 何なら新しいスープをもうひとつ頼もうと提案するコラソンを止めて、ローはカップに口をつけた。
「これがいい…。コラさんが食べたやつ、あとから食べたい」
 一口スープを飲んだローが幸せそうに笑う。
 その笑顔が儚くて、コラソンは頭を抱えたくなった。
 ローを取り巻いていた環境はきっと、残り物以外を食べさせて貰えない環境だったのだろう。
 パンやおにぎりは多分一人でいる時に与えられていた唯一の食料で、母親がいる時はそれすらも与えて貰えなかったのかもしれない。
 与えられたのだとすれば、母親が食べ残した食料だ。
 誰も手をつけていない料理を食べることがローは出来ないでいる。
 憐れみなどの同情は、あまり人に向けるものではない。
 頭では理解していても、コラソンはローを可哀相としか思えなかった。
「そうか…。じゃあ、適当に摘まんで食うから、ローも好きなのを食えよ」
 コラソンは気を緩めれば泣きそうになる顔を笑顔に変えて、なるべく多くの皿から一口ずつ料理を食べていく。
「ほら、すっげー美味いぞ! 温かいうちにローも早く食えって」
「う、うん…」
 ありがとう。
 小さなローの声は音になってコラソンに届くことはなかったが、コラソンの食べた後を追うように料理を口に運んで笑うローに、コラソンも笑みに顔を歪めて静かに泣いた。
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