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□空想儀
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数カ月履き古したスニーカーは思った以上に草臥れていたようで、そこが薄くなって砂利やコンクリートのざらついた感覚が疲れた足にじわじわとダメージを与えてくる。買い物に行く暇もないのでせめて靴底に穴が開かないことだけを祈りながら3日ぶりの自分のアパートに転がり込めば、そこで息絶えたように玄関で座り込む。そういえば水もまともに飲んでいない。ずるりと踵から落ちるスニーカー、ぐらりと揺れる視界。帰宅した安堵感からか畳み掛けるように迫る眠気と空腹感に脳が揺さぶられて思うように体を動かせない。眠い、お腹も空いた。喉もカラッカラ。でもまず着替えないと。
意識を取り戻させたのはコートのポケットからの小さな振動だった。それはしばらく震え続けるから仕方なしにひっつかんで画面をスライドさせる。着信相手も見ずにはいと電話に出れば、電話を鳴らした相手は受話器の向こうではあ、と一つため息を漏らした。
「手塚君?」
「そうだ。」
「どうしたの、珍しい。大会は。」
「昨日終わった。結果、見てないのか。」
「ああ、ごめん。さっきまで研究してたから今帰ってきたばっかで。」
「なるほど、昨日あれだけ電話をかけても繋がらないわけだ。」
手塚君の深みのある声にまた眠気が誘われる。返事ができずにいるとうっすらと名前を呼ぶ声がして、また意識を取り戻す。どうしたと言う声は少し焦りを帯びていて、私はすぐにごめんと零す。
「ここ何日かね、あんまり、寝てなくて。」
「食事は。」
「ううん、摂ってない。」
「体調管理には気をつけろと、常日頃から言っているだろう。」
「ははは、ごめ………ん…………」
また脳が揺さぶられる。目の前が白黒と反転を繰り返したその瞬間に体が鉛のように重たくなり、瞼も落ちる。手から抜け落ちた携帯電話のかたんという音さえ耳に届くことなくその場に倒れこむ。キイ、という高い金属音だけが耳に刺さったかと思えば、腕ごと体を持ちあげられて既のところで頭が床に打ち付けられることなく引き上げられた。取り戻した聴覚に最初に触れたのは、今度は直接耳に響く優しい声色。
「なまえ、しっかりしろ。」
「て、づか……」
「唇も青いな…立てるか。」
首を横に振り、彼の腕にしがみつこうとするけれどその力もなく添えるだけになってしまう。そのまま膝裏を持ち上げられて寝具に運ばれるが、そこでやっとなぜ彼がここにいるのかという疑問が浮かんだ。しかしそれを問う前に手塚君はキッチンへと急いでしまう。冷蔵庫を開ける音がしたが、確か中身は空っぽだった、はず。それは記憶違いではなかったようで、遠くで彼の溜息が聞こえた。多分また、怒られる。
「こういうことだろうと思っていたが、お前は本当に学習しないな。」
「長引いたら冷蔵庫の中のもの腐っちゃいそうで。」
「毎日食べるには毒だが、せめて冷凍食品くらいは常備しておけ。」
「ごめんね。一眠りしたら、一緒にスーパー行こう。ほんと、三十分くらい寝たら治るから。」
「駄目だ。お前には十分な睡眠と食事が必要だ。何もないだろうと思ってスーパーには寄ってきておいた、食事は今から俺が作る。」
「えっ、そんな。いいよ自分でや………らせてくれないんだね。」
有無を言わさぬ彼の目力に圧倒され、無理やり起こした体は結局毛布に逆戻り。コートをハンガーに掛けながら手塚君は私にきつく休養を言いつけるから仕方なく目を瞑る。とはいえ体は限界を超えて疲労していたために彼がキッチンに立つ音を聞く間もなく、意識は手から離れてしまった。
それからしばらくして、手塚くんに起こされた時にはオレンジ色だったはずの空は日が沈んでいて真っ暗になっていた。カーディガンを羽織り、彼に支えられてテーブルにつけばサラダもスープも白いご飯もちょっと形の歪なハンバーグも並んでいる。
「手塚君、また自炊上手くなったね。」
「健康管理の為だからな。余り見た目は良くないが…」
「全然いいよ。すごい、嬉しい。冷めちゃう前に食べたいな。」
寝ぼけ眼がすっかり爛爛と輝いてしまうくらいには彼のご飯が食べられることが嬉しくて子供のように足をばたばたさせてしまう。そしてやっと起きた脳が私にあることを思い出させた。寝る前に訊けなかったことだ。
「そういえば手塚君はなんでこっち来たの。」
「…特に理由はない。」
微妙な間と、目を合わせず早口で答えるこの様子は嘘を付いているときのそれだ。むっとして手塚君を睨むと、嘘がバレたことが分かったのか彼はあっさりと白状した。
「お前と連絡が取れないから、何かあったのかと思ったんだ。」
「…それは、ごめん。」
「大会の優勝を一番最初にお前に伝えたくて電話をかけたが出なかったな。」
「昨日バタバタしてたから携帯の電源切ってたの。」
「結局一番最初に優勝を伝えることになったのは跡部だった。」
「相変わらず仲良しだね。」
そう言うと手塚君がすごい嫌そうな、ちょっとじとっとした目でこっちを見てきたから咳払いして誤魔化す。サラダのトマトを口に運んでから彼は続けた。
「研究で忙しいのかとも思ったが、昨日の夜胸騒ぎがして今朝一番の飛行機に乗った。そして来てみれば…これだ。」
「いや、本当にごめんなさい。」
ハンバーグを解す箸が止まる。いたたまれなくなって俯くと、手塚君の大きな手がそっと髪を撫でてくれた。おずおずと顔を上げて彼の表情を伺うと、そこで視線がかち合う。よかった、と彼は呟いた。
「よかった、って。」
「弱ったお前をこうして側で支えられてよかった、という意味だ。」
「でも、手塚君には迷惑かけちゃったね。明日またドイツ戻るんでしょう。ばたばたさせてごめんね。」
「いや、ドイツにはしばらく戻らない。」
「跡部君怒らないの。」
「どうしてそこで跡部が出てくる。」
跡部君の名前を出した途端眉間にシワが寄る。昔からだけどこうするとほんとに歳相応に見えなくなるから余計に萎縮してしまうのだ。
「大事な用があると、跡部には伝えてある。次の大会まで期間もあるから、調整の日程を含めてもしばらくはここにいられる。」
「もしかしてここ泊まる?だとしたら着替えとか、布団とかいるよ。一日二日分ならまだしも、しばらくって。」
「そうだな。お前の体調が回復次第、買い物に付き合ってくれないか。」
「それはいいけど。でも、どうしたの急に。大事な用って。」
口に含んだハンバーグの肉汁がじゅわっと広がる。おいしい、と頬を綻ばせると珍しく手塚君がちょっとだけ笑った。用ってなあに。もう一度尋ねると手塚君は目を細めて、息を一つ吐いて私に向き直った。
「俺と、結婚してほしい。」
「………結、婚。…私と?」
「お前以外に誰がいるんだ。今回帰ってきたのは結婚の日取りやその他の準備の為だ。お前さえ良ければ、だが。」
驚きのあまり一気に喉の水分が乾く。貪るようにコップの水をがぶがぶ流し込んでから、やっと、嬉しくて飲んだ水がそのまま涙になったみたいに溢れてきた。ぼたぼたと滑り落ちる雫。でも嬉しくて嬉しくて、泣きながら満面の笑みで大きく頷く。

「ありがとう。こちらこそ、宜しくお願いします。」













(蛇足みたいなプロローグが次ページにあります)


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