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□色欲
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妻の様子がおかしいと気付いたのは帰宅して間もなくであった。お帰りなさい、と玄関で出迎えるなりそそくさと俺に背を向けてお風呂どうぞと居間へ戻った妻がどこか余所余所しく、タオルを取りに部屋に行った際台所を横切った時にも口数はなくあたかも俺から目を背けるような気がしてならなかった。普段であれば上着と鞄を受け取るなり今日は少し寒かったからお夕飯は鍋にしたのだとか、お隣さんから柿のお裾分けがあるから一緒に食べましょうとか何かしら一言があって、彼女の前を横切ろうものなら顔を上げて笑いかけてくれるものだった。
真田弦一郎は浴槽で思慮を巡らせる。妻は怒っているのだろうか。だとしたら俺に何か非があったのだろうが、何か思い当たることはあるだろうか。今日は接待で夕食の用意はいらないと前々から言っておいたから、それではない。仁王が以前接待でキャバクラに行ったのがばれたときには随分と大目玉を食らったと聞いたが第一俺はそんなところにも行っていない。今朝はいつも通りだったから、昼間なにかしただろうかと記憶を辿るもののやはり原因はわからない。となると、彼女に何かあったか。口数が少なかったり俺に目を向けなかったり……はたと浮かんだ疑問に弦一郎は首を横に振る。そんな、まさか。自分の妻とあろうものが不貞の罪を犯すなんてことは、ありえない。そもそも妻は自分から夜の営みを迫ってきたことはないし、これまでだって体を重ねたのはせいぜい3度ほどだ。いや、だからこそ不貞の罪を犯す可能性はあるのか。
1度浮かんだ疑惑はなかなか拭えないもので、弦一郎は気分よろしくないままに風呂を上がる。妻はまだ台所におり、どうやら明日は鶏の煮物のようで切った人参や玉ねぎがまな板の上に山を作っていた。

「風呂、空いたぞ。」
「はい。」
「………。」
「先にお休みになってください。まだ下ごしらえに時間がかかりますから。」
「そうか。分かった。」
「おやすみなさい」
「…お休み。」

いつもならば、火元から目を離して振り向く妻が今日は一度も振り向かなかった。何処か声の調子も低い。今日の昼間に他の男と体を重ね、俺に飽いたのか。益々深まる疑念に心中が黒い感情に苛まれていく。寝室に入ると布団はもう敷かれていた。何か証拠となるものでもないかと部屋を見渡すが、そこにあるのは朝起きた時と全く代わり映えのない自分と妻の寝室である。このことは更に弦一郎を苦悩させた。

「なまえ」
「ひッ!?」
思い立ったが早かった。自分で考えても分からないならば問い正して聞き出せば良い。弦一郎は再び台所を静かに訪れれば突然に名前を呼ばれたなまえは方をびくりと振るわせて、素っ頓狂な声を上げた。火は止まっており、洗い物をちょうど終えた彼女は台の上のタオルを握ったまま振り向こうとしない。
「私、お風呂に入ってきますね。」
「今日の昼間、何処に行っていた。」
有無を言わせない弦一郎の物言いは、なまえの退路を断つ。風呂を言い訳にしようとしたものの、結局振り返らずに彼女は押し黙る。尚も弦一郎は問うた。今日の昼間に、何があった。
「何も……何処にも出かけていませんし、少し昼寝を。」
「それだけか。」
「ええ。どうして。」
「何故俺野方を向いて喋らない。」
「………。」
「俺に飽いたか。」
「そんなことは!」
弦一郎の問いかけに、咄嗟に彼女は振り向く。ようやく顔を見合わせた二人は、しかしなまえはすぐに俯いてしまう。
「では何故だ。俺が帰ってから、随分と余所余所しいぞ。」
「それは…」
「疑いたくはないが、言えないようなことならば俺はお前が不貞を働いたと思わざるを得ない。」
「………。」
「どうなんだ。」
唇を一文字に結び、噛み締めるなまえに弦一郎はもう一度問う。観念したようになまえは小さく息をつき、目線は下におろしたまま弦一郎さん、と前置きした。
「余所余所しくして、ごめんなさい。」
「…言えることか。」
「言えます、けど、」
「……何だ。」
「浅ましいとか、思われそうで怖くて。」
歯切れの悪い彼女はなおもバツの悪そうに弦一郎から目を逸らす。弦一郎は嘱託の椅子に腰を下ろし、俯いたままの彼女の顔を下から覗き込んだ。勿論すぐに逸らされてしまったが。ここまで問い質したからには、最後まで吐かせなければならない。
「…聞こう。」
咳払いをして、静かにそう言うとなまえもまた小さく頷く。ようやく覚悟を決めたようであった。
「珍しく昼間に、テレビを見ていたんです。」
「…ふむ。」
「ちょうど時間が時間だったから、昼ドラが入っていて。お洗濯物を畳みながら横目で見てたんですけど、たまたま、その、…濡場で。」
「ああ。」
「見入ってしまったんです。そうしたら、…弦一郎さんとね、……シたく、なって。あーもうだから言いたくなかったんです!」
理由が理由なだけに恐らく知らず知らずのうちにぽかんとした顔をしてしまっていたらしく、彼女はもうたまらなく恥ずかしくなって顔を覆ってしゃがみこむ。あーとかわーとかもうどうしようもないくらいに恥ずかしくて仕方なくてそのまま1人で固まってしまった。
「…だから先に寝てって言ったのに。」
「す、すまない。…疑ったことも、詫びよう。」
「それは気にしてないです。」
「とりあえず、落ち着かんか。風呂に入るのだろう。」
動かない彼女の代わりに選択竿に干されている桃色のバスタオルを取る。頭にかけてやれば、ようやくそれで顔を隠しながら彼女は立ち上がった。
「…お風呂、いってきます。」
「あからさまに機嫌が悪いな。」
「当たり前でしょう!あーもう!」
「そう怒るな。…分った、では疑った侘びをさせろ。」
「…え。」
脱衣場の扉に手をかけたまま、なまえが振り向く。タオルの隙間からちらりと見えた目は戸惑いに揺れていた。

「…寝室で、待っている。」




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