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□物言わぬモノ達
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一階の一番端っこのこの作法教室は夏休みの間に畳が張り替えられたらしく、この新しい畳の匂いが気持ちまで軽くしてくれる。
今朝届いたというお花をいくつか手に取り、剣山や花器を取り出しながら外から漏れてくる運動部のボールを蹴ったり打ったりする音がよく響くこの部屋で、1人座り込む。水の張った花器、水面の下に写る剣山の鋭い刃先。精神が研ぎ澄まされるこの瞬間。思うがままに花に、葉に、枝に、刃を入れては断切る。葉を千切り、花びらを毟り、柵を一つ一つ解いていく。心の中のもやもやとした不安や迷いすら晴らしていくように、生い茂った葉を散らす。不思議な花だ、切ったところから赤い液体が出てくる。まるで血のようだ、と思いながら、またしてもその茎に鋏をいれる。指に赤い液体が、飛んだ。まだだ、まだこれでは雑多としていて、すっきりしない。これじゃない。花を挿す位置を変える。剣山の先が、指先を掠めた。また赤い液体が飛ぶ。ブラウスの袖に染みを作る。

「手を止めろ。」

静かな世界が暗転する。はっと顔を上げたと同時に突然頭から血がひいたか為に、軽い貧血を起こしているようだ。しばらくそうしているうちに、モザイクがかった世界の向こうに1人の男子生徒の影が見えた。この声、この人は…

「真田君…」
「血が滲んでいる。剣山で刺したのに、気付かんのか。」

じんわりと人差し指に集まる熱。促されるままに見てみれば、私のそこはだらだらと黒みがかった血を流していた。集中しすぎて痛みにすら気付けなかった。彼が和室に入り、和紙と墨を広げていたことにも、全く。

「すまない、集中していたようだが血が止まらなさそうだったのでつい声をかけてしまった。」
「ううん、いいの。…ありがとう。」

手渡された絆創膏を受け取り、指にテープを回す。その間に彼は筆を持ち、いつものように私が生ける花の向こうでさらさらと筆を動かし始めた。彼らしい豪快で、力強くて、それでいて整っている字。私も処を書くことはあるが、彼のような美しいものは書いたことがなかった。だから、つい見とれてしまう。書と、筆を持つ彼の姿に。厳格な彼の、最も精神が穏やかなこの瞬間に。
でも何故だろう、最も心穏やかなこの空間で、私が胸をざわつかせているのは。先程まで一人、花と向き合っていた孤独な世界にいたのに。
誤魔化そうと挟を手にする。もう一度、心の柵を断ち切らねばならない。この胸騒ぎを、まだ生い茂った枝葉とともに切り落とす。ぱちん、ぱちんと和室に鋏の音が響く。水辺についた葉を千切り、折れかけた枝を切り落とす。

「……できたのか。」

あれからどれだけ時間が経ったことだろう。真田君は腕を組み、花と書とを隔てて私と向かい合っていた。小さく頷くと、彼は立ち上がり、そして私の隣に腰を下ろした。

「…些かいつもの作品よりも小さいな。」
「今日は、そんな気分なの。」
「そうか。」

花には、人の性格やその時の気分が現れる。今日の私は小さくまとまっているらしい。
真田君は静かに私の作品を見つめた。夕日が差し込む和室の中、少しだけオレンジがかった葉がキラキラと輝いて見える。聴覚を奪われてしまったのかと錯覚する程に、静かになっていた。私と彼の息遣いだけが僅かに鼓膜を震わせるのみだった。

「お前の生ける花は、日毎に表情を変える。一昨日は大きな作品を作ったかと思えば、今日は小さくまとまっている。先週は複雑な生け方をしていた。」

隣にいる彼は、腕を組んでそれでも尚私の作品から目を離さない。私も、同じです真っ直ぐに花を捉えていた。

「俺は…そんなお前の作品を、ずっと見ていたいと思っている。」
「…ありがとう。」
「…伝わらんか。」

困ったように吐き出した言葉に、私はやっと彼の方を見た。どういう意味?と尋ねると、真田君は何でもないと言って立ち上がった。先ほどと同じように書のあるほうへ戻ると、筆や硯を手にして立ち上がる。もう片付けてしまうらしい。

「ねえ真田君、」
「何だ。」
「私もね、真田君の書、…ずっと見ていたいな。」

そういうと、ほんの一瞬だけ彼の眉がぴくりと動いた。驚きの色を見せた彼の表情を見たのはこれが初めてで、思わず私までぱちぱちと瞬きして動揺してしまう。

「…そうか。」
「真田君の書、私は好きだから。真面目だけど、本当は優しい人なんだなって字から分かるよ。真田君は、いい人なんだって、書が言ってる。」

だから、好き。付け加えると、彼は途端にふいっと私に背を向けて和室を出ていってしまった。去り際、たわけが、と小さく吐き捨てたその口元はちょっとだけ笑っていた。
やっぱり真田君が笑うところを見るのも初めてだったから私はまたびっくりして目をぱちくりさせてしまったけれど、すぐにお花を剣山から抜いて彼の跡を追った。足も、胸の鼓動もいつもより急ぎ足で、でもちょっとだけまだ心のどこかがもやもやして、でもそれも嫌じゃないなと思ったのはきっと、真田君のおかげ。


不器用な私達が結ばれたのは、ここから数年先のこと。



End.
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