*本 文 *

□朧月夜に
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随分と暖かくなってきたものだ。


風に混じる草木の匂いを感じながら、小十郎は桜の見事な縁側で笛を吹く。
傍らでは頬を染めた政宗が、のんびりと酒をたしなんでいる。
卯月も終わりかけ、雪深い奥州にも、ようやく遅い春が訪れていた。


「小十郎も一杯やれよ」

曲が終わると、政宗は予備の盃を差し出し、酒を勧める。

「いえ、小十郎は…」

「いいじゃねぇか。ほらっ」

少し酒が回っているのだろう。政宗は無理矢理酒を押し付けると、そのまま強引に酒を注いだ。
小十郎は一瞬やれやれと言う顔をしたが、黙ってそれを飲み干した。

「旨いだろ?」

「ええ」

機嫌を良くした政宗は、満足そうな笑みを浮かべながら小十郎に寄りかかる。
少しの重みと共に、身体の右側がじんわりと温かくなった。

「政宗さ…」

家臣に寄り掛かるなどはしたないと言いかけて、小十郎は言葉を詰める。
ふと向けた視線の先、流れるような項の艶やかさに思わず息を飲んだのだ。

大きく開いた衿から覗く肌はほんのり色づき、酒に湿った唇も、盃を舐めとる赤い舌も、目を疑うほど蠱惑的だ。

「どうかしたか?」

「いいえ。何でもありません」

「苦虫噛み潰したようなツラしてないで、もう一杯飲めよ」

小十郎の掌にもう一度盃を持たせ、政宗は並々と酒を注ぐ。
しかし手元が狂ったのか、途中勢い余って溢れかけたそれを、あっと言いながら口に含んだ。

「ギリギリセーフ…」

小十郎の盃から口を離し、政宗が悪戯っぽく笑う。
切れ長の目元が柔らかく緩み、鳶色の髪がさらりと揺れるその様は、気を張っていなければ吸い込まれてしまいそうな美しさだった。

「小十郎?」

「な、なんでもござりませぬ」

なにやってんだ…。
小十郎は弾けそうに高鳴る心臓を諌めつつ、盃を空にした。




まだ17になったばかりだと思っていたのに、この所の政宗の成長は著しく、しばしば小十郎を驚かせる。戦はもとより、国内の政についても、随分と大人びた見方を出来るようになった。

加えて母 義姫譲りの容貌は、誰もが思わず振り返るほどのものであり、隻眼の奥深く揺れる妖しい色香は、夜に舞う蝶のように心を惑わせる。

男女の境なく、この城の者達が政宗を見るだけで溜め息をついているのを、本人は知っているのだろうか。


いいや、知るはずもない。
この方の心には既に……。


「政宗様。もう一献失礼致します」


小十郎は一気に酒を煽ると、朧に霞む月を見上げた。










「小十郎…」

「どうされました」

「少し、寒くなってきた…な」


しばらくすると、政宗は僅かに声のトーンを下げ、小十郎の胸にコツンと頭を預けてきた。
それからなにか言いたげに小十郎を見つめ、恥ずかしそうに目を伏せる。

さっきまでとは打って変わった物憂げな姿に、小十郎は焦る気持ちを隠しきれない。


「風が出て参りましたね。そろそろ中に入られますか?」

「いや」

「ならば羽織るものを…」

「いらない」

小十郎が立ち上がろうとすると、政宗が袖をギュッと引っ張った。
一瞬絡み合う視線の中には、酒のせいだけでは済まされない熱っぽさが潜んでいる。

ああ、またこの瞳だ。

小十郎はゴクリと唾を飲み込んだ。



政宗の瞳に、ある思惑を感じ始めたのはいつ頃だったろう。
はっきりとした時期は分からないが、小十郎が気付いたときには、政宗の態度の節々にそれを感じるようになった。

誰もが一度は陥るだろう、甘いけれど出口のない迷路のような気持ち。
月並みな言葉で語るなら、人はそれを恋と呼ぶ。



最初は考えすぎかもしれないと思った。

しかし時が過ぎるほどに確信は深まり、どうにも言い訳ができなくなった。
何より政宗を長年見守り続ける小十郎にとって、主の異変はどんな微細なものであっても、自然と目についたのだ。


けれど、知ったところでどうにもならない現実がある。
竜の右目ともてはやされ、誰よりも近くに居ることが許されていようと、政宗とは生まれながらに世界が違うのだ。


例え自分に嘘をついても、政宗を傷つけても、家臣として守らなければならない道がある。


「政宗様…どうかお離しください」

「俺に触れられるのは嫌か?」

「そうではありません。このような所を誰かに見られたらどうされますか」

「俺は構わねぇ」

どうにか平静を保ちつつ言い聞かせるが、政宗は聞き分けない。
仕方なく腕をほどこうと身を引くと、今度は小十郎にしがみつき、首もとに顔を埋めて囁いた。


「お前が傍に居てくれるなら、俺は誰に何を言われても良いんだ」


耳をくすぐる甘い響きに、思わず胸がざわついた。
このまま抱き締めることが出来たなら、どんなに良いだろう。

だが……だがしかし。
ともすれば流されそうな己を奮わせ、小十郎は拳を固く握る。


「勘のいいお前の事だ。大方は気付いてんだろ」

「買い被りでございましょう。小十郎にはさっぱり…」

「素っ惚けんな!小十郎…俺はお前が…」

「なりませぬっ!」


小十郎は政宗の右腕を掴み上げると同時に、掌で開きかけた唇を封じた。
衝撃で柱に背をぶつけた政宗が、恨めしそうに小十郎を睨み付ける。

「………っ」

「お立場を考えなされ。それ以上は…何も仰いますな」

小十郎は絞り出すような声で、もう一度言った。

しかし、政宗は真っ直ぐに小十郎を見据えると、口を塞ぐ掌にそっと指を添えた。
同時に小十郎の中指にチクリとした痛みが走る。

政宗が歯を立てたのだ。

「痛っ……」

思わず声を上げると指は解放されたが、今度は赤い舌が指の隙間を這い出した。
ぬるりと生暖かく指先を弄ぶ感触に、小十郎の背筋がゾクリと震える。

「な…、政宗様っ、お戯れを」


「くだらねぇな、小十郎」


政宗は吐き捨てるように言葉を挟むと、甘噛みをしながら唾液を吸い取り、指の根本でクチュリと音を立てる。

引き抜こうと思っても、上手く力が入らない。
追い詰められた小十郎は、息をするのも忘れ、呆然と政宗の口元を見つめていた。

こそばゆい筈なのに、クスリとも笑えない。
むしろ、この指を這う舌が誰のものかを考えるだけで、身体中の血が沸々と沸き上がりそうだ。


「くだらねぇ。だが、そんなお前が良い」

「ですからっ!」

「お前だけだ…小十郎。今までもこれからも」

真っ直ぐな瞳が、小十郎を捕らえる。
たった一つの光は太陽よりも目映く、けれど小十郎の胸を強く締め付けた。


「貴方と言う方は…」


この小十郎から、何もかも奪うおつもりか。







「小十郎っ…!てめっ、何しやがる!」

両手首を強く握られ、政宗が痛みに顔を歪める。
小十郎は主の姿にも表情を変えることなく、ギリギリと手首を締め上げた。

頭の中は真っ白で、嬉しいのか、悲しいのか、苦しいのかも分からない。ただこんなに混乱していても、こびりついたシミのように、消えない愛しさが切なかった。

「こじゅっ…バカ!痛てぇって!」

「政宗様……」

小十郎はゆっくりと政宗を押し倒し、互いの顔を近付けた。
しかし唇は触れ合う事なく、一秒、二秒…時間だけが過ぎ、桜の花弁がひらひらと二人の上に降り積もる。

いっそのこと、このまま拐ってしまおうか。

やれるものなら、やってみろ。そんな勇気もない癖に。



「お許しください。政宗様」

「何を許せってんだ」

「さぁ……もう小十郎にも分かりませぬ」

自嘲気味に笑うと、小十郎は悲しげに頭を抱えた。

「大馬鹿野郎が……」

政宗が、小十郎を包むように抱き締める。




雪の様に、二人を包む桜、桜。

こんな夜は、運命すらも憎らしい。





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