航海

□第四話
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先程怒って走り去ってしまったローを、グレイスは事務所の上から発見する。視力が優秀であった為、遠く離れて米粒のように見える人間も判別できた。

「……?」

ーーコラさんに近付いている?

何をする気だろうかと眺めていると、ローは用心深く周囲を気にしながらコラソンに背後から近付いているようだ。その近付き方は、肉食獣が姿と気配を消し、獲物に近付く姿に似ている。
そして次の瞬間、ローが一気に迫りコラソンの背中に接触した。

「!」

コラソンをローが背後から刺した。間違いない。

ローに気を取られていたが、バッファローが彼の傍で全てを目撃していた事に漸く気付いた。バッファローが何か叫んでいるが、声までは流石に聞こえなかった。

ーーどうしよう…。

きっとバッファローはこの事をドフラミンゴに報告するだろう。もうすぐセニョール・ピンク達も帰ってくる。
報告はバッファローに任せ、自分はローが逃げないように見張っていよう。

正直に言うとグレイスはドフラミンゴが苦手だった。今まで会ったことがないタイプで、初めて自分が恐怖を感じた人間かもしれない。
一人で彼と対峙するのが嫌で、だからローが犯した大罪の告発をもう一人の目撃者に勝手に任せたのである。
だがこの時グレイスは、ローがバッファローに口止めしている場面を見ていなかった。



ローは不法投棄されたゴミ山を避けながら街を目指す。ドンキホーテファミリーにまだ正式に加入していないとは言え、これは脱走であった。

彼は船長の弟をナイフで刺した。死体を確認してはいない為に死亡したのか分からないが、彼は刺殺したと思っている。そして最悪な事にバッファローに目撃されてしまった。最早ここにはいられない。

ローはバッファローを特大アイスで買収して口を封じた。
ファミリーの中核を為す人間がアイスで口止め。それでいいのかと疑問が浮かぶが、まだ子供で食いしん坊な彼には無理からぬ事だろう。それに逃げるローにとってはその方が都合が良かった。

だが追跡者のグレイスが、ローの脱走を許さない。

「“鏡の迷宮”」

脱走者の逃走経路に鏡の結界を張る。巨大な鏡が瞬く間に出現し、天井となり、壁となり行く手を阻む。

視界が鏡の世界に支配され、ローは混乱した。

「な、何だぁ!」

それは不可思議で怖ろしい世界。目の前に映るものは自分である筈なのに、異形がそこにあった。

頭は風船のように膨らみ、首から下が細長く棒のようになり、また逆に上半身が細長く、下半身が平べったい楕円形で花瓶に似ていた。他にも全身がマッチ棒のように細長くなったり、今より半分程の身長の自分がいたり、また全身が肥満したような体型になっている。

鏡に映る無数の自分にローは絶叫した。

「うあああああ!」

鏡の中の異形の自分自身が、自分を凝視して絶叫する。歪んだその姿はローに混乱と恐怖を抱かせた。

一体何が起きているのか。現実とは思えない不可解な現象に、人は平常心を失う。

頃合だと思ったグレイスは結界を解く。恐怖の現象が突然終わり、ローは荒く息を吐いて尻餅をついた。

「ハァ、ハァ…何が…」

尻餅をついたまま呆けたようにローは誰にともなく呟く。
無意識に平常な心を取り戻そうとしているのか、息を吐き続け地べたに座り込んだままのローに背後から近付き、一気に縄でぐるぐる巻きにした。

「!?」

抵抗の隙を与えずローを縛り上げ、縄を持って引きずる。

「グレイス……っ。てめぇ、放せ!」

「煩い。脱走者が偉そうにすんな」

「ふざけんな!人形の癖に…!」

“人形”の言葉にグレイスはピタッと立ち止まる。急に立ち止まった事に訝しんだローが振り返ると、グレイスが相変わらず無表情にこちらを見下ろしていた。
黙って見下ろされているだけだったが、外されない視線を受けてローは居心地の悪さを感じる。

「…な、何だよ!」

弱気なところを見せる事を嫌い、ローは態と威圧するように声を張る。威嚇を込めた犬の吠え声のようだ。
グレイスはローの遠吠えを無表情のままスルーした。

「……人形って、誰が言ったの?」

硬質な声だった。それでも珍しく感情が宿っているように聞こえるが、それが何なのか分からない。
だがそんなことローには関係なかった。

「んなの、誰だって言ってるぞ。お前は感情のねぇ人形だってな」

ーーこの時のグレイスの顔を、ローは決して忘れないだろう。

それは怒りなのか。

それは憎しみなのか。

それは悲しみなのか。

それは寂しさなのか。

グレイスの表情は無とは言い難く、だが無に限りなく近くありながら、どのような感情なのか判別できないものだった。

顔に射した陰影は仄暗い。凡そ子供らしさというものがない。

「そう……」

たった一言だったが、ローはそこにグレイスの心に潜む底知れぬ何かを感じた。だが子供の彼が分かるはずもなく、大人であろうと無理だっただろう。
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