航海

□第二話
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高速で迫る拳を避ける。だが頬に掠り、皮膚が破けた。
空気を切る鋭い音が拳の威力と相手の力量を物語る。だが、相手が本気でないことは分かっていた。悔しさが募るが表情には出さない。
そもそも、大人と子供の絶対的な身体能力の差がある。積み重ねてきた鍛練、経験の差が全てを決める。

「!!?」

ドガァッ!!

蹴りが腹に入り、強い衝撃に小さな体が吹っ飛ぶ。壁に激突して崩れ落ちた体を見て、男は小さく息を吐いた。
サングラスをかけ、上等な葉巻を吸いながら、スーツ姿の男は余裕で小さな子供を追い詰めた。
大人が子供を蹴り飛ばすなど、常識も道徳もあったものではない。だが、これが彼等の“普通”であった。
虐待だと思われても仕方がないが、これは鍛練なのだ。

「………」

金髪碧眼、褐色の肌の少女は端整な容姿だが、感情が浮かんでいない。年相応の子供らしさが削ぎ落とされていた。
無言で起き上がった少女を見て、男は半ば呆れて嘆息する。泣き顔の一つでも見せれば可愛いものを。

腹を押さえ、頬に触れるとビリッと電流のように僅かな痛みが走る。拳を避けきれなかった時に出来た傷だ。漸く人間らしい表情が浮かんだが、すぐに消した。

「お前も懲りねえな、グレイス。その体じゃもう無理だ。ジョーラに手当てしてもらえ」

「……」

グレイスと呼ばれた少女は相変わらず無言なのだが、男には彼女が何を言いたいのか何となく分かっていた。

鍛練を始めてから二時間が経ち、その間グレイスは一方的にやられて傷だらけであった。
擦過傷、打撲、打ち身など少女が負うには不似合いだが、彼女自身は気にしていなかった。

「おい。グレイスはいるか」

突然の第三者の声に二人は振り返る。髪を棘のように纏め、ゴーグルと顔の下半分をマスクで隠した男がいた。

「どうした。グラディウス」

「若が呼んでいる。早く行け」

グラディウスに言われ、グレイスはセニョール・ピンクに黙礼して彼の側を通り過ぎる。
小さな背中を見送るグラディウスは、フンと鼻を鳴らした。ゴーグルから覗き見える彼の目は険しい。

「相変わらず可愛げのないガキだ」

グラディウスの目に友好的な感情は浮かんでいない。憎々しげな棘が多分にあった。

「…まだあの時の事を根に持ってるのか」

セニョール・ピンクは呆れた視線をグラディウスに向ける。
二ヶ月前、彼等が属するドンキホーテ海賊団(ファミリー)は、辺境地の裏社会を仕切る組織と抗争を起こした。原因は相手の裏切りだが、末端の構成員であったグレイスの能力に翻弄され、一度取り逃がしてしまった。

能力者とは言え、子供に翻弄されたとあって直情径行なグラディウスはいきり立った。所詮は辺境の弱小組織だと舐めきった己の傲慢さを恥入らず、内憤激しく次は必ず始末するのだと決意した。だが彼が絶対の忠誠を誓うドンキホーテ・ドフラミンゴはグレイスの捕獲を命じた。彼女の能力を欲したのである。
ドフラミンゴの命令は絶対だ。いくら気に入らなくとも、彼が捕獲せよと命ずるなら捕獲するまで。

だがまたしてもグレイスにやられてしまった。痺れ薬入りの煙玉を顔面に喰らい、煙を思い切り吸ってしまった。しかも尊敬するドフラミンゴの目の前でだ。痺れ薬を大量に吸い込み、数日は動けず、大変情けない思いをした。

ドフラミンゴの目の前で自分を虚仮にしたーーグレイス本人にそのつもりはなかったのだがーークソ生意気なガキが、グラディウスはいけ好かなかった。彼女自身は全く気にしていないようだが。

セニョール・ピンクはそんなグラディウスに少し呆れていた。大人げない…。

「しかし若は何でまたグレイスを?」

「組織が保有していたコネクションと出身地の事で聞きたい事があるらしい」

「あいつは何も知らないの一点張りだったが…」

下っ端であろうと大の男を悲鳴を出させずに一撃で殺めたーープロの技だ。
高等な戦闘や暗殺術の訓練をグレイスが受けてきたのは確かだろう。しかし彼女はどこで訓練を受けたのか、その組織はどこかなど、拷問を受けても「知らない」の一点張りだった。
少女の身で拷問に耐えるとは大したものだが、その為の訓練も課されてきたのだと知らしめてもいた。
実際グレイスは何も知らないようだ。故郷も、親の名前も、自分の生年月日すら知らないと言う。

「若には何か考えがあるのだろう。俺達が口を挟むことじゃないさ」

「そうだな」

出身が気になるのはドフラミンゴだけではない。

無表情な顔、無機質な瞳ーー人を殺しても変化がない。

“標的を殺す為に作られた”のだ。その過程で“壊れる”切っ掛けとなる正常を捨て、“生き残る為”の異常を身につけた。

グレイスは根っからの殺し屋だ。
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