Story

□林檎は地に落ちた <前編>
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そこは俺の、というよりラストの行きつけのバーだった。
ラストとは、幼馴染だった。長い付き合いだ。四つ年上で、いつも何かと――お節介なほどに世話を焼いてくれた。実の姉のように。
お酒好きなラストは、意外と真面目に――というよりもエンヴィーの容姿があまりに幼すぎたからだけなのだが――俺が酒を飲める歳になって初めて、そのバーに飲みに連れて行ってくれた。やっと一緒にお酒を酌み交わせるようになったわねと、ラストはそれは嬉しそうに笑っていたっけ。それから俺は、ちょくちょくラストに連れ立って飲みに訪れた。
その日も、俺はラストとそのバーで酒を飲んでいた。

春先の暖かい日で、冷たいビールが喉に心地よかったのを覚えている。赤い革貼りのお決まりのカウンターの席でラストと隣り合って座っていて、俺は1杯目のビールを飲み干して2杯目を傾けようとした。
その時だった。
「ラスト?」
斜め前方、オレンジ色の暗めの照明の中から、少しかすれた低い男の声が聞こえた。
背の高い男だった。顔は最初よく見えなくて、細身の黒いのジーンズに黒いストライプのシャツの襟が中途半端に立っていた。
「あら」
ラストは男を見て別段驚いたでもなく呟いて、少し首を傾けた。
男はもたついた足で前を歩く既に帰る素振りな二人の男――おそらく先ほどまで一緒に飲んでいたのだろう――に何やらもそもそと話しかけて、そして二人に軽く手を振りながらこちらに歩み寄ってきた。
黒い短髪をワックスでつんつんに立てた男は、近くで見ると、大きな口に高い鼻、2センチほどに整えられた短い眉、細く白目がちな目のその瞳に――オレンジの照明のせいだろうか深い赤色を湛えた、見るからにふてぶてしい面構えだった。男はラストの隣の椅子にするりと掛けて、当然一緒に飲むのだというように目の前のバーテンにウイスキーを注文した。
「久しぶりだな、ラスト」
男は犬歯をちらつかせて笑いながら、ラストに顔を寄せた。
「そっちこそ、あんまり来てなかったんじゃない?しばらく見なかったもの」
ラストは肩をすくめてにこやかに笑いながら、さらりと返した。男はそうだなとかなんとか、同じく笑って返した。
俺はそのとき、この男はラストに惚れているのだと思った。ラストに寄り付く素振りや馴れ馴れしい口振りがそう思わせた。それに、美人の彼女に惹かれる男の気持ちは、同じ男として十二分に理解できたから。だが、男は知らないのだろうか。おそらく知らないのだろう。可哀想に、ラストには今もう彼氏がいるんだよと、お節介にも伝えてやりたくなった。
しかし、どうやらそうではないようだった。
入り込めない会話に頬杖をついてぼんやりしていると、男は、
「な、そろそろ俺と付き合えよ。今の奴なんてフッちまってさ」
突拍子もないことを言った。現実にこんなことをいう男がいるなんてと、俺はこの上なく脱力した。ラストはけたけたと笑って、またそんな冗談と男を小突いて、男はにやにやと目を弧にして、手元に置かれたウイスキー・オン・ザ・ロックを一口含んだ。
俺は、こいつ…とんだ軟派野郎なわけね、と呆れ返りつつも静かに納得した。
そうこうしているうちに、話の矛先が自分に向いた。
男はラストを挟んで俺に目を向けて、
「ラストのダチ?初めて見る面だな」
俺は急に話題をふられてはっとした。様々に思いを巡らしていたところを突然現実に引っ張り出されて、なんだか焦って、あーとかうーとか、とにかく言葉に詰まった。ラストも俺のほうを振り返って、上手く自己紹介すら出来ないでいる自分を見かねて、代わりに紹介してくれた。
「ええ、私の弟」
ラストは、それはそれは自然に言ってのけた。そして、うふっと小さく笑った
「は?」
それを聞いて、男は怪訝な顔をした。俺も、多分同じような顔をした。それを見てラストは悪戯っぽく目を細めて、
「ふふふ、嘘よ。私の幼馴染。エンヴィーって言うの」
「へえ…」
男はどういう意味での「へえ」なのか分からないが、とりあえずそう答えていた。たいした感慨もないだろうにと俺は思い、ジョッキの取っ手に手をかけた。
「可愛いでしょ。よろしくね」
俺はラストに自己紹介を任せて悠長にジョッキを傾けていたが、飲み下すところでむせ返った。咳き込む俺を見て、ラストは口元にその細く白い手を当てて楽しそうに笑った。どう考えても、男の自己紹介には不要な形容詞だ。俺は涙目になりながら、若干イラッときて眉を寄せた。
男に視線を向けると、その男も笑っていた。悔しいことに。
「そういうあんたは誰?」
完全に八つ当たりだと分かっていながら、俺は棘のある言葉をその初対面の男に向けた。男は俺の態度に気を悪くした様子もなく、あぁと思い出したように呟いて名乗り始めた。
男はグリードといった。
ラストの1コ上で、彼女とは飲み友達だと言った。俺がまだ酒を飲めない年齢だった頃、このバーで知り合って、たまに飲むような仲になったのだという。しかし、どうやら恋愛関係としては全く発展しなかったそうだが。俺に全くもって誤解が生じないようにラストが口添えをしながら、男の自己紹介は終わった。面白半分にラストとああなったこうなったと言っていた男は、実につまらなそうに口を尖らせていた。確かに、ラストには軽くあしらわれるタイプだと思った。そう思って俺は少し笑い、ぬるくなりかけのビールを一気に飲み干した。
空のジョッキをテーブルに下ろして、もう一杯頼もうかと思案していると、ラストが言った。
「ポジティヴなグリードとネガティヴなこの子で、絶対仲良くなれると思うわよ」
俺がきょとんとして男を見ると、男も同じく、一瞬きょとんとしていた。彼女はにんまりと満面の笑みを浮かべ、交互に俺たちを見た。
「そりゃ丁度いいな」
男は嬉しそうに言って、ウイスキーの半分ほど減ったロックグラスを掲げた。
そして男は手を伸ばし、俺が握り締めたままでいた空のジョッキに一方的にグラスをぶつけて、あまりにも一方的な乾杯が果たされた。





to be continued…
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