Story

□林檎は地に落ちた <前編>
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「綺麗ね」
林檎のボトルのオーデトワレ。金の鎖に繋がれて、黒いニットの胸で揺れている。
それを細く美しい指で差して、艶めくウエーブの黒髪を無造作にバレッタで束ね上げている女――ラストは笑った。
「なんならあげるよ」
「嘘つき」
苛々と突き返された言葉に、ラストは全く動じることもなく、さらに笑った。

エンヴィーは一通りぶつぶつと悪態を吐いて、沈黙した。
隣に視線を流すと、ラストは相変わらず全てを見透かしたよう微笑んでいる。思わず溜息が零れた。
その通りだ。今更彼女を騙せるほど、自分は器用ではない――。エンヴィーは思った。
ニット帽からはみ出した肩にかかる長さの黒髪が冷たい風に靡く。白い首筋に冷気があたり、エンヴィーはいそいそとコートの襟を立てた。
街路樹の欅に絡みついた装飾がきらきらと輝きを放っている。その強い光を受けて、エンヴィーの目は痛みとともに滲んだ。一昨日で終わるのだと思っていたイルミネーションは予想外に今も外されておらず、どうやらこのまま年を越すつもりらしかった。
洟を啜り上げて、鼻の頭の冷たさに気づく。ポケットに忍ばせていた手で鼻を擦るが、手もさして暖かくはない。つい先ほどまでアルコールで火照っていた体は、冷たい外気に晒されて冷え切ってしまった。いつもなら鼻まで引き上げてすっぽりと包まってしまえる愛用のマフラーが、今は首元にはない。一昨日の店、あのバーだ。そこにあることは分かっていた。が、足を運ぶ気は全くといって起こらなかった。必然的に、その愛用のマフラーは諦められた。
そうだ。自分は諦めが良かったはずだ。
人の性質などそう簡単に変わるものではない。つまり、今回だってほんの一時の気まぐれで、きっとすぐに諦めがつくはずだ。
エンヴィーは冷たい指先に息を吹きかけた。
「寒そう」
隣からの艶っぽい声に、エンヴィーはふと目を向けた。ラストはほんの少し眉を寄せて笑いながら、エンヴィーに向かって黒い皮の手袋を差し出していた。
エンヴィーは、吐息で温めて、それでも悴んでいる両手をみつめた。しかしその手はラストの方に伸びることなく、一直線にショートコートのポケットに収まった。
「いらない。寒くなんてないもん」
エンヴィーはツンと鼻先を上に向けて言い放ち、ラストの気遣いをそっけなくあしらった。竦めていた首が伸びて、また、首筋を冷たい風がすり抜けた。
エンヴィーは元々体温が低くて、寒がりで冷え性だ。長い付き合いのラストは、そのことを知っている。また、先刻二人でお酒を酌み交わしているときに、エンヴィーはラストにマフラーの話をした。すぐ近くなんだから取りに行きなさいよと、ラストは散々エンヴィーを馬鹿にしたのだが。
ラストはマフラーもしている。綺麗なエメラルド・グリーンのカシミアのマフラーだ。でもあえてマフラーではなく手袋を差し出した。それはなぜか。もしマフラーを差し出したら、自分は愛用のマフラーを諦めた手前、それを受け取らないだろうとラストは思ったからだ。そして実際に自分は受け取らない。だから手袋を差し出した。手袋なら受け取るだろうと考えて。でも、そんなラストの打算的な考えはお見通しだ。それではどうあっても、受け取れない。
いや。そんなことはないのだろうか。冷え性がどうとかマフラーがどうとか、全く気にも留めなかっただろうか。ただ単純に自分が今さっき隣で手を温めていたから、咄嗟に手袋を渡そうとしたのだろうか。しかし、そうであったとしても今更もう受け取れはしない。
エンヴィーがぼんやりとそんなことを考えていると、ラストはあきれ返ったように、
「もう…ほんと意地っ張りネェ!そんな馬鹿みたいに意地張ってたって、何にもいいことないわよ」
と吐きかけた。そして無理やりにエンヴィーの手を引っ張り出して、冷えきった手を強く握り締めた。
ああ、そうだ。
エンヴィーはゆるりとため息をついた。
やっぱり彼女は騙せない。彼女こそ、何もかもお見通しだ。
分かっている。
彼女の行動は心からの好意だ。疑いようもない。なのに素直に認められない。それほどに自分が、救いようもないほどにひねくれているだけなのだ。
分かっていて、誤魔化しているだけだ。
それだけではない。
諦めたふりをしている。諦めの良いふりをしている。
自分は、少しも諦めなど良くない。
認めたくないだけで、全部分かっているのだ。
忘れてきてしまったマフラーは、今頃どうなっているだろうか。あのバーのカウンターの、赤い革貼りの椅子の上に。置いてきてしまった。3杯目、一口飲んだだけのズブロッカはあの後どうなったのだろう。
置いてきぼりのあの男は、あの後どうしたのだろう。
なぜ、自分はこの林檎だけは、置いてこなかったのだろう。
どこを見るでもなく、エンヴィーは視線を泳がせた。
そんなエンヴィーを何も言わずに見守りながら、ラストは僅かに赤みを取り戻したその手に、温かい手袋をはめさせた。
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