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□吾亦紅ヶ原 序章
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序章




 使いたてのスプーンは鉄の味がする。
 血と、同じ味だ。


 安物だからだろうか。エンヴィーはくわえていたスプーンを手に取り、ぼんやりと眺めた。過去、スプーンを曲げた超能力者が居たっけ。ユリ・ゲラーとかいった。軽く指に力を込める。ぐにゃりとスプーンは曲がり、役目をなさない形となった。
 馬鹿馬鹿しい。超能力などありはしない。ユリ・ゲラーの正体が只の奇術師であったように、そんなもの、あるわけがない。目の前のコーヒーカップに曲がったスプーンを投げ入れる。熱を湛えた黒い液体が弾け、丸テーブルの上に模様を作る。
 雨粒が風にのって、つがいの蝶が引き裂かれかけた古い扉を打っている。6月、気の滅入る雨の季節。雨は昔、すべてを洗い流して消し去ってくれる、はずだったのに。雨の匂いが、苦手になってしまった。雨に濡れた世界では、生臭く苦い匂い――血と湿ったタバコの匂いが体にまとわりついてくる。そして切り裂かれるような喉元の痛みと眼球を焼くような熱、続いて耐え難い吐き気が襲いかかってくるのだ。

 苦しい、苦しい、苦しい…。
 そんなとき逃げ込むのはいつも此処だ。地下の暗い喫茶店。黴と埃の匂いの混じりあった、空気の冷たい空間。自分は此処が気に入っている。いつ訪れても此処は同じ匂いがする。落ち着く、大時計の振り子のように揺さぶられた心が、静かに平静を取り戻す。そして…感傷に浸るような淡い熱を、冷まして消し去ってくれる。

 そう、決めている。
 深く黒い模様に、細く白い指を浸す。もうそれは冷たい。そうだ、この世界に冷めない熱などない。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫…。

 額に巻き付けた黒のバンダナを解き、肩までの雨に湿った黒髪をかきあげる。コンクリートの剥き出しの天井を見上げて、仄かに光を放つの緋色の照明を凝視する。その緋色は蛇の目だ。エンヴィーは笑う。お前にかけられた魔法だか呪いだかからも、もうときはなたれる。俺は、本当の俺に戻る。雨が好きだった頃の、何の疑いもなかった頃の俺に…。


 エンヴィーは黒のスーツのポケットから、古ぼけたシガーケースを取り出した。ケースを開くと、中には3本の葉巻。しばらく指先で転がし、中から1本手に取る。マッチを擦って翳すが、なかなか葉巻は火を灯さない。湿気って来ている。何度もマッチを擦り、やっとの事で火がつく。エンヴィーは軽くくわえ、肺を煙で満たした。そしてゆっくりと長く吐き出す。ちりちりと微かな音を立てて、葉巻は少しずつ灰になっていく。これは、ある男の残していった体の一部。そして、長い間俺を捕らえ続けた呪いの根元だ。それを、男の体をすべて灰にしつくして、跡形もなく吹き飛ばしてしまえば…。

 そう信じている。

 ――不味いな…。
 アンティーク調の椅子の背に凭れて、エンヴィーは大きく息を吐いた。
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