Story

□イスラーフィールの笛
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その笛の音が聞こえぬように
硬く己の耳を塞ぐ






目覚めると、泣いていた。
馬鹿馬鹿しい。女々しい人間どものようだ。
シーツから抜け出るとベッドルームは真っ暗だった。うたた寝してしまった。
溜息をつき、脱力する。体がずしりと重い。室内は無音、空気がシンと冷えている。脇の下がひどく冷たい。怠い手を差し入れると、びっしょりと濡れている。再度、大きく溜息をついた。

一体何時間こうしていたのか。この部屋を訪れたときは、窓から西日が射していた。
乱れたシーツの上で、仰向けに転がる。寝ぼけ眼で見つめた天井は、落ちてきそうな程に低い。その圧迫感に、息が詰まる。嫌な錯覚だ。
体を起こし、だらしなく乱れた髪を梳る。汗ばんだ掌に長い髪がまとわりつく。不快感に手を引き抜き見つめると、多量の黒髪が絡みついている。気色悪い。顔を顰め、もう一方の手で一本一本取り払う。しかし、取り払っても取り払っても一向に髪の毛は絡んだまま、掌から消えない。酷く気色悪い。不可解な現象に、苛々と狂ったように手を叩きつけ掻きむしる。と、ぽろり、手元に長い黒髪が落ちてくる。手を止めて見つめる。髪の毛が抜け落ちてくる。ぽろり、ぽろりと。ぞくり…。あまりの気味の悪さに血の気が引き、肌が粟立つ。なんだこれは?頭が混乱する。くしゃくしゃに顔を歪めてとりつかれたように頭部を引っ掻きつける。と。
ズルリ…。
「ひっ…!」引きつった悲鳴と同時に脳味噌がぐらりと揺れ、呼吸が止まる。シーツの上にばさりと落ちる、大蛇のようにとぐろを巻いて這う黒髪の束。全身は驚怖に捕らわれる。蒼白になって、手足から徐々に震えはじめる。歯をガチガチと鳴らしながらベッドの上で後ずさり、すぐに壁に背がぶつかる。その振動に長い髪はさらに何の抵抗もなくばらばらと抜け落ちる。膝が黒髪に埋もれていく。どうしよう…どうすればいい…。重力に逆らわず降り注ぐ髪を、我武者羅になって頭に押さえつける。混乱と困惑と恐怖とが一緒くたになって無能な脳を痛めつける。心臓は不規則に脈打ち、呼吸が異常に上がり続ける。視界が滲んでくる。嗚咽が漏れる。涙がぼろぼろとこぼれ落ち、自らの体とシーツを濡らす。頭を抱え、滝のように涙を流し続ける。
ズブ…。はっとする、や否や、シーツが砂のように朽ちて飲み込まれる。あり地獄。雪崩れ落ちる砂の上、もがいてもがいて這い出そうとしても這い出せず、見下ろすと奈落のような暗闇に黒髪の大蛇がのどを鳴らしている。墜ちたくない。砂に爪を立てる。が、掴まる術はなく、爪の間に入り込んだ砂はいつの間にか黒い虫になり、肉を喰らい始める。痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い――。血まみれの手は痺れはじめ、どん底はすぐそこにせまる。体は、変身も再生も叶わない。

息を切らして泣きじゃくって、砂にのまれながら喉の裂けるほどに叫んだ…。






自分の叫び声に目覚めると、泣いていた。
ゆるゆると首を捻って見回すと、ベッドもシーツも綺麗なままだった。
額に手をあてて溜息を吐く。全力疾走の直後のように、呼吸が乱れている。体中の毛穴から噴き出した汗が、衣服に染み込みゾクリと冷たく冷えている。
涙で滲む天井は真っ黒だった。うたた寝してしまった。
未だ残る体の震えを止めようと、深く息を吸い上げる。そして深く息を吐き出しながら、思い至る。それもこれも、待てど待てど来やしない――とは言ってもどのくらいの時間が経ったのか分かってなどいないのだが――あの男のせいだ。頭にくる。しかし、その怒りを持続させられるほど、エンヴィーは気力を持ち得なかった。だからふと、男は自分が鬱々と眠っている間に現れて、意地悪くも見捨て帰ってしまったのではないか、などと怯弱な考えが浮かんだ。

体がだるい。とりあえず首だけでゆるりと部屋を見渡した。真っ暗だ。何も変わったところはない――ように見える。まだ男は此処を訪れてはいないのだろうか。暗闇を見つめてぼんやりと思う。結局、見回したところで分かるはずもないと諦める。そして首を正そうとした。その時。視界の隅に何かが映り込んだ。
弾かれたように起き上がり、顔を向ける。視線の先には壁の上で傾いている静物画の額。はめ込み硝子が反射して、そこに――。
赤い点が2つ並んでいた。
先ほどの倍の速さでぐるりと辺りを見回す。まさか、あの緋の目の男がやっと訪れてくれたのかと、そう思ったのだった。すると、寝室の入り口、黒く塗られた木製のドアの僅かに開いた隙間に、緋色の目を持つ黒い人影が覗いていた。エンヴィーは安堵した。胸を撫で下ろし、ほっと息をついて、男の名を呼ぼうとした。が、喉元まで出かかった名は、舌に乗る前につかえて、結局ごくりと飲み込まれた。
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