Story
□サティリアシス
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首筋に絡みつく太い腕と、冷たい唇。
耐えきれない、脱力感。
「やっ…あ…」
不覚にも漏れる甘い声。ぞくり、悪寒のような痺れる感覚が背骨を伝う。首に吸いつき顔を見せもしない男は、不機嫌そうに、
「うるせぇな…黙ってろ」
小さく溜息のように言い放った。
だるい。
途轍もなく体がだるい。大事な大事な赤い液体が、どぷどぷと抜けていく。頭がぐらぐらする。焦点が定まらない。マゾヒストの気など皆無、痛みを何よりも嫌っていた我が身。それがどういう訳か、こんなにも自然に受け入れてしまっている。
冷たい冷たい男の与える、鋭い痛みを。
白い御影石たちを見守るのが仕事。碑を磨き、草を刈り、花壇を整え、それを繰り返す。近くの煉瓦造りの家に住み土臭さを――そしてその下に沈む人臭さを、何時間もかけて洗い流す…。それが日課。アムステルダムの町外れに、ひっそりと埋もれて生きている。
アムステルダム――赤茶けた町並み。緩やかな石畳の坂道。丘の上の古びた時計台。そして、蔦の這う朽ちかけた屋敷。
カレラはそこに住まわっていた。
午前零時の鐘の音が小高い丘から降り注ぎ、耳に木霊する。頭蓋骨の中に至り反響し、正常な思考をかき乱す。
ぴちゃり…。
鐘の音の余韻を裂き、水音が響く。押さえ込まれていた圧迫感と鼻を突く黴の臭いが去り、脱力した体は板貼りの床に崩れた。
赤煉瓦の古風な造りの家。小さな簡易ランプの明かり一つ、薄暗いベッドルーム。
満腹だとでもいうように、暗がりに佇む男は大きく息を吐いた。息を吐き、唇を舐めあげると、男は虫食いのマントを翻し、光沢のない黒靴のソールを鳴らした。
だるい体は、その振動にビクリと震えた。
知っている。男が麓の町へ降り立ち若い女性たちに手をかけているのを知っている。
仕方ない。一人では男の食欲を満たせない。分かっている。
けれど…
掴まなければ、
その冷たい青白い腕を。
頭痛と吐き気を伴う、まさに貧血という症状をおして、細い腕が伸びた。今にも木枠の出窓に掛かりそうなその手を、叩き落とすように払う。
男はお見通しというように、鋭い犬歯をむき出しに嘲笑を浮かべた。
蔦のぼろ屋敷は、針葉樹の林を挟んで、丁度この家の裏に位置する。食欲という名の欲望のままに、この男が此処に飛び込んできたのは数年前。
まさかと思った。まさかありえない、と。
声の一つも出せず立ちつくしていると、冷たい床に打ちつけられ、組み敷かれた。そして、床よりも冷たい手で軽々と拘束された。その男の冷たさと透けるような青白さに背筋は凍り。男はさも可笑しそうに笑んで、首に顔を埋ずめた。
氷の唇が触れた刹那、鋭い牙が貫いた。
激しい頭痛に目を覚ますと夜明け。男は幻かのように消えていた。
すべてはそれ以来だ。