□はるをよぶ
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甘く清しい香りが鼻を掠めた、ように思った。
草木も虫も眠りについているこの時期に、このように華やいだ香りは珍しい。
気を惹かれ、出所を探して周りを見れば、くすんだ緑の常磐木や葉をすっかり落とした樹が侘しげに佇んでいるのに紛れ、蝋梅がひそりと立っているのが目に止まった。細い枝に無数についた蕾の、幾つかが控え目に綻んでいる。
香りの元はこれらしい。
近寄って試しにちょいとつついてみると、先程感じたのと同じ香りが僅かに強く漂った。

薄黄色の小さな花弁は、半透明に薄く固く、脆く見える。迂闊に触ればぱりぱりと割れて砕けそうな、その名の通りに蝋でできた作り物のような風情である。
だが実際に触れてみれば、びろうどのように滑らかでしなやかな手触りの、確かに生きた植物なのであった。

――梅と名はついていますがね、本当は梅の仲間じゃあないそうですよ。

懐かしい声が耳の奥で谺する。
何の会話のついでだったか、爪先で花を撫でながら、楽しそうに話していた。金の髪の、白い肌に蒼い目をした、甘い顔立ちの男。どんなときでも側にいた、大事な友だった。
長じて古女房と呼ばれるようになった彼もまた、外見の優しさに反して中身は侍そのものの激しい男だった。その本質を見抜けずに、見た目に騙され痛い目をみた者達を、カンベエは幾人も知っている。

ふと思いついて、綻びかけた蕾がひとつふたつついた枝先を折りとった。樹に可哀相なことをしたかとちらりと思ったが、折った枝ならばこの先どこかの土地ででも挿してやればよいだろう。土を選ばずに育つ、強い樹だと聞いている。それもまたあの男が言っていたことだ。
空にかざすと、半透明の花弁が陽の光を透かしてきらめいた。その色が懐かしく慕わしい。あの男もこのような、綺麗な金の髪をしていた。
ならばさしずめ、空の青は瞳の色か。
己の思い付きに何やら愉快な気分になり、小枝をそっと懐に挟んだ。

「暫く付き合え」

小さな花に触れてそう呟く。それから花に男の姿を重ねて語りかける己の滑稽さに苦笑したが、心は不思議と穏やかだった。


 

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