長編 蜀

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20【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】


「急にこんなことするなんて、信じられない…。」

「仕方が無いでしょう。国主の養女に手を出すわけにはいかないのです。」

法正は不貞腐れて横を向いた香織を後ろから抱き込んだ。牀の中は二人分の体温で暖かく、体が触れれば暑いくらいだ。

「だからって、せめて事前の雰囲気作りとか…。」

香織は胸の下に回された法正の手の指を一本ずつ外していった。法正が珍しく女相手に下手に出ているというのに、すげない態度で法正の腕の中から逃げ出そうとする香織に
むっとして力強く抱き締めた後、突き放すように言葉を吐いた。

「雰囲気など…生娘でもないでしょうに。」

冷めた声が後ろから聞こえて、香織はピクリと震え体を固くした。

「はぁ?なんで分かるのよ」

「その言い方では認めているようなものですよ」

「っ、あんたほんと最低!」

見透かしているような言葉に、香織は法正の腕を軽く摘まみ、痛くない程度に数度引っ掻いた。反撃が返って来ない事を不思議に思い、体を捻って法正の顔を見ればそこに一瞬だけあったのは突き刺さるような視線。

「な、なに。」

「いえ、俺は意外と独占欲が強いようで。」

「……私も人並みに恋愛くらいはしてきたのよ。」

法正がため息と共に腕を緩めそれでも離さずにいると、その腕の中で器用に寝返りを打った香織が法正の方へと向いた。視線が合うなりはにかんで、もぞもぞと法正の胸元に額を寄せる仕草は飼い主に甘える猫のようで。

「眠くなってきちゃった。」

「このまま眠っても構いませんよ。どうせ誰も来ないでしょうから。」

「……明日も泊まれるかな。」


香織の問いに法正が答える前に、香織は寝息を立て始めた。









香織の国籍が作られたのはそれから数日後の事であった。通常の期日よりもいくらか早いその期間は何よりも優先して取り掛かられた証拠で、香織はむしろ後回しにしてくれても良かったのにと思いながら国籍を賜った。





「劉封殿!今から鍛錬に行くの?」

「香織殿、おはようございます。えぇ、今から鍛錬に参ろうかと。」

養女として後宮を中心とした生活に慣れて行くうちに、兄弟となった劉封と意気投合していった。質実剛健という言葉が似合う劉封という男は、香織と同じく劉備の養子であり、また歳も近かった。養女となった後の劉備からの下賜品を全て断っている香織の行いを好意的に思っている劉封は積極的に話しかけてくれるし、兄弟であるから肩肘を張る必要もなく、愚痴を零す事も出来て多少の無礼も許容される。
他の兄弟はまだ幼く、香織が公主と呼んで可愛がっている妹もまだ7歳であった。阿斗はどうやら別の場所で過ごしているらしく、香織が顔を合わせることはなかった。

「じゃあ私も連れて行ってくれない?後宮を出る時は付き添いが必要だから。ね?」

「構いませんよ。今すぐ出られますか?」

「うん!」

香織が劉封に付いて後宮の外に出るのは最近覚えた脱出方法で、鍛錬の見学をしながら物思いにふけることが最近の癒しであった。たまに法正の姿を見ることがあるも、他人の前で話すのはどうにも気が引けて出来ずにいた。他の人と同様にして普通に会話するのは一向に構わないはずなのに、香織には法正と普通に会話するという想像が出来なかった。軽口を交わしているうちに手を伸ばし、抱きつきたくなる事を十分に理解している。長年恋い焦がれていたような気がするのはやはり、現代の法正と重ね合わせてしまうからであるが、それでも香織が想っているのはここの法正である。見学の席に着いて周りを一通り見渡せば黒と緑に包まれた背中が見えた。誰かと手合わせをしているらしいその後ろ姿に胸が締め付けられるように苦しくて、なるべく黒と緑を視界に入れないようにと劉封の様子を見ることにしたのだった。


「久しぶりだな、香織殿。」

「徐庶!」

劉封の圧倒されるような槍捌きを見ていた香織は後ろから聞き慣れた声が聞こえて振り返った。撃剣を片手にした徐庶が香織の後ろに立っていて、今から鍛錬に向かう所のようだ。

「後宮を抜け出して、見学かい?」

「へへ、うん。あそこは息苦しくて。」

香織の笑顔に徐庶はつられて、鍛錬場だというのにのんびりとした気分になった。地位を得てもなお変わらない女性というのが徐庶には珍しく思えて、国主の娘なのに装飾を付けてない事や息苦しいからと抜け出してしまう幼さが親しみ易さに変わり魅力となる。

「そう言えば、この前飲みに行った店だけど、」

「また行きたいって言ったのに行けなくなっちゃった。お酒もご飯も美味しかったのに、うぅ、それだけが心残りだなぁ。」

「っはは、香織殿、」

香織の心底悔しがる顔を見た徐庶は噴き出してしまった。食事なら城内の方が豪華だし雰囲気も良いだろうに、城下の食堂に行けないことを嘆くとは。

「あそこの食事は持ち帰る事も出来るんだよ。もし良ければ、持ち帰って場内で食事をしようか。他の人も誘えば、いくらか許可が降りやすいだろうし。」

「嬉しい!徐庶、ありがとう!」

香織は素直に喜んで、鳥肉の羹は絶対食べたいだとか野菜の焼き物も外せないだとか、その日を待ちわびるように一人で言葉を続けた。元来他人と交わす言葉数が少ない徐庶には、その楽しそうな独り言が心地良い音曲のように心を温めて、その上わざわざ返答を求められない所が気安くて、香織とならいつまででも話していられるような気になる。

「徐庶殿、待たせてしまって済まない。」

「趙雲殿、いや、いいんだ。午後の調練の打ち合わせは上手く行ったのかい。」

「えぇ、徴兵したばかりですからまずは初歩的な所から始めようかと。益州の民は戦に慣れていませんから。」

趙雲が遅れてやって来た。二人は手合わせの約束をしていたようで、香織が口を閉じて二人の会話を聞いていると穏やかでない言葉が耳に入った。戦に慣れない益州の民が徴兵されるとなれば、そろそろなのかと身構えてしまう。戦になれば何も出来る事がない自分が歯痒くて悔しい気持ちも合間って、次の言葉を探るように二人を見た。

「今年は天候が良いと聞いたよ。豊作ならば早いうちから徴兵を始めて、農繁期に中休みを入れるという法正殿の案は流石だと言えるね。」

「ええ。新兵の徴兵を少数指導で進める案も感嘆するばかりです。あの方は有能で有ることに違いありませんね。」

「はは、」

徐庶が趙雲の言葉に困ったように笑って、それから香織を見て苦笑った。香織は空気が悪くならないようにと終始表情を変えずに話を聞いていたが、趙雲にはそんなことはどうでも良かったらしく、後宮を抜け出している事に厳しい視線を向けられてしまう。

「何故このような所にいるのですか。誰に許可を得たのです。」

「ご、ごめんなさい。鍛錬場で見学するだけだから、危険なこととかはするつもりなくて、」

「万が一にも怪我をされては困るのです。ここにいる者は全て武器を持っています。皆が皆、規律を守り逆心の意がないと言えるわけでは、」

「趙雲、そこまでにしてやってはくれないか」

遠くから聞こえたのはこの国の主の声で、聞き間違えるはずのないその声に三人は拱手して答えた。

「後宮を抜け出すとは…こうして執務から逃げてきた私とやはり親子なのだな、香織殿。」

「義父上…」

「趙雲、お前の手合わせを久しぶりに見たくなったぞ。徐庶も、頼む。」

「わかりました。」


劉備の言葉に趙雲と徐庶は鍛錬場の方へ歩いていく。二人きりになってから小言を言われるかもしれないと下を向いた香織の頭に優しく手を添えられて、抜け出すのは良いが怪我はしないようにと簡潔に告げられた言葉は暖かかった。

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