長編 蜀

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19【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】


「何でそんなに不愉快そうなのよ。」

「気に食わない展開だからです。劉備殿の養女になることがどういうことか、おまえは分からないのか。」

法正は要点を掴めていない香織へと完結に説明した。今までの香織は諸葛亮か法正の下についていた身。それが派閥争いに利用される要因になり、また行動の自由を許す広めの囲いになっていた。劉備の養女になるということはつまり、その囲いが窮屈なほどに狭められ、誰にも触れられないよう段上に上げられるということ。派閥争いに巻き込まれることはなくなるが、自由のある生活もまたなくなるのだ。

「つまり後宮から出かけ難くなるって事?やだな、この前徐庶と飲みに行ったとこ、また行きたかったのに…」

香織の的外れな感想に法正は溜息を吐いた。法正が言いたかったのはむしろ別のところにあるのだが、それには気付かないらしかった。どうせ戸籍を登録するまで数日はかかると、法正は息をついて牀に横たわった。

「え、寝るの?」

「当たり前です。俺は病人ですよ」

「そ、そうだった。」

法正はすぐに寝息を立て始めた。意外と疲れていたのかもしれないと思いつつ香織も牀の近くに置いた椅子へ腰掛けて目を瞑る。殆ど徹夜に近い状態の香織が夢を見るのは簡単なことだった。






諸葛亮と徐庶、それからホウ統は丞相府の一室で誰に聞かれることもないのに小声で話していた。

「殿にも困ったものです。」

「香織殿を思っての事だろう。劉備殿らしいな。」

「元直、こっちの持ち駒が減ったんだよ。感心している場合かい。」

ホウ統はこれ見よがしに溜息を吐いた。成都攻略の後も徐庶は煮え切らないままである。策に徹しきれない、詭道を貫けないといった部分が目立つ。戦ではまだよかった。一度狼煙を上げれば諦めが付くようで、背中を押せば撃剣片手に駆け抜けて行くのだ。つまるところ、内政における立ち回りが一番不得手なのだった。内政では狼煙も上がらず出陣もしない。血が流れた時は大方の争いが決した時である。隠密行動と非道な策を巡らさねば生き残れないであろう派閥争いでは、得意の撃剣も役には立たず。ホウ統には足手まといにさえ感じていた。

「でもその、天女を懐柔出来なくなったのは向こうだって同じわけだし、」

「あちらさんは勝手に内部分裂したんじゃないか。」

痛み分けに落ち着かせようとする徐庶へ釘を挿すホウ統に普段の優しさは存在しない。

「そう…だな。」

「天女の動きはこれからも注視しておきましょう。立場が変わったとはいえ、彼女の発言にはそれなりの価値がありますからね。」

諸葛亮はそう言うと、話は終わりだとばかりに静かに部屋を出て行く。
徐庶はそれをじっと見送って溜息を吐いた。徐庶が先日酒を飲みに行った時の落ち込んだ香織を思い出せば、劉備の養女となるのは良いことのはずなのだ。それが周りの利益にならない事が問題なのだが。

「それで、天女は今日何してるんだい。」

「法正殿が体調を崩したらしくて、その看病に付いているよ。」

「劉備殿の養女になってもあちらさんは手を緩めないってとこかい。無駄なあがきだろうに、ご苦労な事だね。」

ホウ統の言葉に徐庶は賛同も反対もしなかった。先日の軽口を見れば、二人がそこそこ気の合う者同士で有ることは自明だ。法正のしたたかなところが厄介ではあるが、劉備の養女となればそれももはや意味がなくなるのだし、今はそっとしておいた方が良いのだろう。




香織は自然と目を覚ました。座ったまま眠るのは限界があったようで、体を動かすと腰が痛んだ。

「腰痛い…」

お湯を飲もうと薬缶を傾ける。体を動かすために散歩にでも行きたいが法正の部屋を出るのは危険な気がした。手を下すという言葉がどういう事か分からない以上はなるべく部屋を開けたくなかった。

「でも体は清めたいし…。」

香織は少しだけだと決めて法正が寝ているのを確認した後、法正の部屋を静かに抜け出した。

「如何しましたか。」

法正の部屋を抜け出して扉を閉めると、すぐ横から声がかかった。

「趙雲様、何故ここに、」

いるはずのない人物の登場に驚いた香織は趙雲を見上げてそう訪ねた。

「殿のご命令で、法正殿の警護をしております。部屋の外のみですからご安心を。天女殿は何を、」

「私は少しだけ体を清めようと…、趙雲様がいらっしゃるなら安心です。少しの間後宮に下がりますから、よろしくお願いします。」

香織は軽く頭を下げてそう言うと、趙雲は分かりましたと生真面目に返礼した。あの二人は仲が悪いはずだが、趙雲は仕事と私情をきっちりと分ける人なのかと、香織は歩みを進めながら思った。劉備が警護を任せたのは信頼がおけるからだろう。確かに香織のゲームを終えた時の印象でも生真面目で頼り甲斐の有る人間のように映っていた。

「あ、呉夫人!」

「天女様、如何致しましたか。」

後宮に戻れば呉夫人が庭に出ていた。意外と活発らしい彼女は室内にいるより庭を散策していることが多いため顔を合わせる機会に恵まれるようだ。成都は日照時間が短く、晴れの日が少ないのが特徴で、香織にとっても晴れた日の青空を眺めるのは最高の気分であった。

「相談したいことが。薬師の方が、法正の不調につけ込んで手を下す人がいるかもしれないと言ったのですが、その対策をどうすれば良いのか分からなくて。」

「それは……」

どうやら呉夫人にも専門外だったようだ。口を閉じて何かを考えている様子は、始めて見る物だった。

「あの、ご存知なければ良いのです。私も考えてみますし、今は趙雲様が見張りをなさっているので、伺ってみますね。」

「いえ、見張りがいるならば他に考えられるのは毒物…でしょう。道具をお渡し致しますので、後でいらしてください。おやすみに参られたのでしょう?」

「いえ、身を清めに。終わり次第すぐに伺います。」

香織は自室に戻るなり水で体を清めて、火鉢で少しの暖を取るとすぐに呉夫人のところへ向った。そこに置いてあったのは、銀の器と銀の蓮華であった。

「薬師は私の懇意にしている者ですから、彼を疑う必要はないかと。ですが、今後お城での食事は こちらをお使いになるべきです。」

昨日今日と香織が作っていたのは解熱が目的の食事であったため、今後は普通の食事をすることになるのだ。そうなればどこで毒を入れられるかは対策のしようがない。

「ありがとうございます。私には思いつきもしませんでした…助かります。」

「いいえ、天女様は法正様のために一生懸命でいらっしゃるのですね。」


何か含みのある言い方をされたと気づき、香織がはっとして視線を向ければ分かっていますよ、と呉夫人は言った。おそらく法正と香織の関係のことであるとすぐに認識出来て、でもそれは秘密にしておきたくて、香織は内緒でと人差し指を口元に当てると頷きが返って来る。

「そ、それでは失礼致します」

恥ずかしくなった香織はそそくさと後宮を後にした。共通の知人に恋の話をするのは恥ずかしかった。


「失礼しまーす」

香織が戻ったのは夕方になる頃で、ちょうど法正も起きたらしく衣擦れの音が聞こえてきた。

「具合はどう?体拭いて着替える?」

「着替えます。」

呉夫人に指摘された後だからか、法正と視線を合わせ辛い。
香織は湯に水を足して桶の中にぬるま湯を作ると、手巾を浸して渡した。

「…拭っては貰えないのですね。」

法正がからかうようにそう言った。

「自分でして!言っておくけど、外は趙雲が見張ってるから、変な事したらすぐに叫んでやるんだから。」

「趙雲殿が…?全く、殿も心配性だ。」

法正はその見張りの意味をすぐに把握したらしい。自分が狙われていると自覚しながら生活するのは大変だろうと思った香織は、衝立の反対側で小さく息をついた。この世界に来て色々な経験をしたが、自らの命が狙われる事はなかったのだ。香織には思いつきもしない出来事に遭遇している法正を思えば、自分がしっかりしなくてはと再度やる気を出すに至った。


「これは何ですか?」

「これは銀食器よ。毒に反応するからこれを使って食事をすれば良いって。呉夫人が相談に乗ってくれたの。」

「…毒、か。あなたも心配性ですね。」

法正は自分がこんなものを使う事になるとはと、苛立ちを隠さなかった。手を下される程立場が弱くなったなど少し前までなら考えられない程で。香織はその横顔を見ながら、こうなったのは自分のせいでもあるのをひしひしと感じて、視線を下げた。

「ごめん。私が荊州派に寝返ったからこんな事になって…。」

「謝るな…お前のせいではない。勝手に憐れまれては、不愉快ですよ。」

法正は心底うんざりだと言うような口ぶりで香織の謝罪を跳ね除けた。他人に憐れみの目を向けられる事に慣れないからか、同情や憐れみにどう反応するべきなのか分からずに不愉快感だけを感じ取った。







食事は二人分運ばれて、どうやら香織も同じ部屋で食べることになりそうだ。先に食べてと銀の食器を差し出そうとしたが、どうにも先程の法正の横顔が頭の中にちらついた。銀の食器を使う事への抵抗感は確実に法正の中に存在する事を知ってもなお、平気な顔で差し出す事は出来なかった。

「私が先に食べる。」

法正には銀の食器を渡さずに、香織はそれで法正の食事を少しずつ移して食べ始めた。つまりは毒味というものであるが、そのやり方など知らないのでただ先に食べて行くしかない。法正は黙って見ていたが、食事を終わらせた香織に声をかけることが出来なかった。毒が入っていればもがき苦しんで死ぬことになるというのに、その恐怖心が一切感じられないのだ。余程毒が入っていないという自信があるのか、あるいは肝が座っているのか。これで平気だと思う、という言葉を残してお茶を飲み始めた香織の隣で、法正も食事を済ませた。

「これも飲まなきゃだめ?」

「それはもちろんです。」

香織は湯気の立つ薬湯を蓮華で救い一口飲む。毒が入っていないことは証明済みであるはずなのに、飲んだ後の表情を見るために飲ませた法正は黙って見守った。

「苦い…これって何が入ってるの…」

「知りませんよ。ほら、寄越せ。」

法正は何時もの通り蓮華を使わず湯呑みに口を付けて煽った。法正も得意な味ではないが、味など考えずに飲めば意外と飲めるものなのだ。
香織は食器を下げてくるから横になっててね、と言い残して出て行った。法正はそれを無視して卓に腰掛けたままお湯の入った湯のみを手で握った。
香織にはどうにも調子を狂わされる。先ほどの毒味も見返りを要求してのものではないし、先日の涙もそうだ。法正はそれに対して報いるべきなのに、報いる前に向こうから恩を売ってくる。得意の倍返しも時間が許さず行使出来ないでいた。


そうこうしている間に香織は帰ってきた。持って行こうと思ったら侍女に取られてしまったとぶつぶつ言いながら入って来たが、法正が薄着のまま黙って香織を見ているのに気付けば、目を三角にしてずかずかと近寄って行った。

「ほら、牀に戻りなさい。風邪が悪化したらどうするのよ。」


そう言って法正の手から湯のみを奪い、腕を引っ張るようにして牀へ連れて行く。法正は自分よりいくらか小さい香織の後頭部を見ながら、態度だけは大きな女だと思った。引っ張るために絡められた腕は細く、しなやかだ。法正と口論する程強情な癖に、肩幅は市井の女と変わらない。牀の布団を捲るために前かがみになり、強調された腰と尻はどちらかというと細い方だった。そういえば昨日触れた時も、もう少し丸みのある方が好みだと思ったくらいで。

「ちょ、とっ。な、何してるのよ!」

法正は昨日の続きがまだだった事を思い出して、香織の背を後ろから抱きしめた。

「静かにしてください。俺との仲が皆に知られますよ。」

「風邪引いてるのに、こんな、」

耳元で囁くように言えば、香織も小声で反論した。

「風邪が治ってからたっぷり時間をかけて…とも考えましたが、貴方は俺の手の届かない所に行ってしまうようだ。抱けるのは今しかないのです。」

後ろから抱きしめながらも、法正の左手は香織の腰や尻を撫で回していた。香織はその手付きに翻弄されて、少しずつ頬が上気する。

「え?それってどういう、」

香織が振り向き疑問を言葉にしようとするも、途中で言葉の出口を塞がれてしまった。法正のキスが巧みなことは昨日の経験で充分に理解しているからか、どこかでその先を望んでいる自分がいた。香織は抵抗を諦めてその口付けに身を委ね、ゆっくりと絡みつけるように両手を法正の首へ回した。




押し倒すというよりも雪崩れ込むと表現すべきなほど牀へ横たわるのは自然な動作で、法正は当たり前のように香織の上にのし掛かり口付けた。ぴたりと合わさった体、太ももに当たる硬いものに気付いた香織は太ももで挟み込むようにそれを擦りあげて法正を煽る。法正はその動きに舌打ちをして、けれど求められるのは嫌ではなく丹念に香織の体に口付けた。二人の夜はそうして深まって行った。

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