長編 蜀

□18
1ページ/1ページ

18【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】





痛む肩に目を覚ませば、香織は法正の腕を抱きしめるようにして眠っていた。そういえば夜中に牀で泣いてしまったのだったと思い出し、慌てて起き上がって衝立の反対側へ移動し、窓を開いて外を確認すれば日が登る直前のトワイライトが迫り来る頃であった。

「そういえば…熱!」

香織は法正の熱が下がらなかった事を思い出して、牀に忍び寄って額に手を当てる。平熱とは言えないが熱くない程度には下がっている体温に安心して息を吐くと、不要になった布を脇の下から取り出して部屋の隅へとまとめた。今すぐ外に出たいことは山々だが明るくなるまで城内を出歩く事が躊躇われるのは自衛のためでもあり、怪しまれないためでもある。いつ誰が裏切るとも知れない時代において、暗い城内を歩き回るべきではないのだ。香織は火鉢の炭が燃え尽きそうな事と薬缶の水が空になっているのを確認して、明るくなったら井戸へ行こうと決めた。

執務室に置かれた椅子のうちの一つを牀の近くに運んでそこに腰掛け、法正の寝顔を眺める。固く閉じられた瞳、引き結んだような唇、艶のある黒髪。香織は枕元に散らばる髪に手を差し込んだ。しっとりとした肌触りは自分のそれより手入れが行き届いているようだ。

「つやつやで綺麗。ずるい…。」

「そうですか?」

「うわっ」

寝ていると思っていたのに、法正から返事が返って来た香織は驚いて仰け反った。その拍子に椅子がガタンと音を立てる。半身を起こした法正は宙に浮いたままの香織の手を取ると、それを優しく握って香織から目を離さなかった。
突然手を掴まれた香織はわけも分からず動けないばかりか離してくれという言葉も出ない。口の中に空気が入るわけでも出るわけでもなく、時間が止まったように感じた。

「昨日は随分ご心配をおかけしたようですね。熱も下がったので報恩を、と思いまして。」

「報恩?い、いらないっ。」

「そうもいきません。借りた恩は必ず返す。俺の性分ですから。」

法正は香織の手に口付けた。見せつけるように丁寧に、ゆっくりと。

「で…でも、欲しいものとかないし、して欲しい事も…」

「それは残念です。」

法正はわざと目をそらさなかった。昨夜の香織の泣き方を思い出せば、自分に気があることは分かり切っている。今ここで香織に嫌われるような事は避けたいと、握っていた手をあっけなく離した。

「も、もうすぐ起床時間だし、やりたいことあるから外に出てくる!」


香織は逃げ出すように執務室を出て行った。法正はその耳まで赤くした後ろ姿を楽しげに見つめ、部屋が再び静まり返るとすぐに横になった。しかしその瞳は閉じられる事もなく、口角は自然に引き上げられた。その感情は"楽"ではない。法正はこの十数年で初めて心から"喜"を感じていた。一昨日抱いた女の事などとうに忘れている。身を気遣って泣くほどに思われることがこんなにも自身に喜びの感情をもたらすとは。抑えきれない感情にどうすることも出来なかった。同時に劣情を抱いているのも定かで、それは初めての感情だった。処理のために選択した経験はあっても、特定の個人を求めたことは未だかつてなかった。

「悪党の名が聞いて呆れる…ですが、悪党に惚れたのだから相応に報いよう。」


法正が眠りについた頃、香織は庭先の井戸で水を汲んでいた。何人か城中で人の動く姿を見るも、知っている人間がいなくて話しかけられず、香織は仕方なく桶に汲んだ水を持って法正の執務室へと舞い戻った。すやすやと眠る法正を確認して、薬缶へ水を入れて火にかける。再び水蒸気が出てきたのを見届けて後宮へ戻ると、侍女が一人起きていた。

「まだ起きててくれたの!?」

「はい。何事かありましたらすぐ対応できますようにと、呉夫人に言われまして。…私どもで何かお役に立てることは御座いますか。」

香織は無理をさせる気はないのだから寝ていて欲しいと言いかけて、しかしながらこの人たちの仕事を奪うわけにもいかないと思いとどまり侍女へ相談を持ちかけた。

「みかん、ですか?」

「うん。」

「みかんは日持ちがいたしませぬ故、今はもうないかと。」

ビタミンの取れる果物は手に入らないかと聞いてみるも、相手も自身も困ってしまった。ビタミンという存在が知られていないので仕方が無いが、みかん以外に思い出すものがないので推測し合うしかない。オレンジとグレープフルーツが伝わりそうに無いことはすぐに推測できて言葉を飲んだ。

「では、柚子はいかがでしょう。柚子なれば今もまだ貯蔵したものがあるはずですが。」

「柚子?…柚子があれば助かります!」

香織は飛び上がるように喜んで国庫の担当者に分けてもらえるよう交渉した。今年は豊作で柚子が余るほどある事と昨晩呉夫人から銀貨を渡されたことも合間って、快諾してくれた担当者の手を無理やり握りしめ握手を交わした香織は、大量の柚子を抱えたまま再び後宮へ戻った。

柚子が手に入ったとは言ってもやれることは限られている。柚子を蜂蜜で漬けるか、柚子を茶に入れるか。他には柚子の皮を添える程度の物しか思いつかなかった。

「天女様。法正様のご容態はいかがでしょうか。劉備様が、後から様子を見に行くそうですよ。」

聞き覚えのある声が香織の住む棟から聞こえてきて、姿を現したのは呉夫人だ。

「熱は下がりました。あとは咳などが収まるまで療養すべきかと。」

「それは良かった。柚子をお持ちなのですね。柚子は蕪と合わせることもできますし、羹(あつもの)に入れても良いかと。」

「蕪と合わせるのは生のままですか?そっちにしようかな…」

香織は呉夫人に教わりながら柚子とカブの和え物を作っていく。余った果実は絞って蜂蜜を加えたジュースとして飲ませる事にして、朝食の準備を行った。



香織がそろりと部屋に入れば、法正は未だ眠ったままであった。いつでも温め直せるようにと鍋のまま持ってきた粥の蓋を確認して卓に起き、寝顔を眺める。悪党だとは思えないそれに見入っていれば、ぱちりと瞳が開いた。

「起きてたんなら起きてるって言ってよ。」

「……起きてます。」

「遅い!」

文句を言いながらも香織はお茶を入れてそれを渡す。朝ご飯あるけど、の言葉に食べますと帰ってきた事に香織は安堵した。食欲があれば治る速度は跳ね上がる。柚子の果汁も口に入れたのを見届けて、再び煎じた薬を沸かして渡した。すると今度はちらりと見て毒味をしろと視線が訴える。意味がわからないが、そういう物なのかと香織は苦くて飲みにくい薬湯を蓮華掬い一口飲んで、それから渡した。

「ふん、」

「苦…笑わないでよ。もう毒味してあげないからね。」

香織が否定したのと法正が薬湯を一気に煽ったのは同時で、香織は文句を言いながらもからの容器を受け取って卓の上に置いた。

「目が腫れていますね。」

「目…?あ、仕方ないでしょ、泣いたんだから。」

「それはやはり申し訳ないことをした。」

香織が法正を再び寝かせようと卓から牀へ近寄り掛け布を整えていると、後ろかろ法正がゆったりとした歩調で歩いてきた。ふらふらと覚束なかった昨晩に比べて、今日はしっかりとした足取りだ。布団に腰掛けるのも心許なかった昨夜と違って、この分ならば長引かないだろうと安堵したとたん、香織は強い力で手を引かれ牀で上半身だけ起こしたままの法正に抱き寄せられた。

「な、なに?」

「昨夜の貴方は俺のために泣いた。それも目を腫らす程…。俺はそれの恩返しをしたい。」

「だから、良いって、そんなこと、」

「貴方の昨夜の様子を見れば、貴方の欲している物は手に取るように分かります。」


法正の足の上を跨ぐように倒れこんだ香織の視線の先には法正の顔があった。昨夜の様子で香織の欲している物が分かると、法正が言ったのを反芻した香織は咄嗟に下を向いた。

「何を恥じらう事がある。欲しいのなら欲しいと言えば良いだろう。」

「欲しいとか、そういうのじゃないよ。」

「おや、そうですか?俺は貴方と同じ気持ちで嬉しかったのですが、」

近距離で聞けば普段よりも耳に纏わり付くようなその声に、香織の顔は赤らむばかりだった。香織も昨夜、目の前の法正に気があることを自覚
したばかりで、それにも関わらず夜が開けてからの急激な展開に頭がついていけない。

「でも、私…」

「言いたいことがあるなら目を見てから言え、」

ぐい、と顎に手を置かれて上を向かされれば、至近距離に法正の瞳がある。少し苛立ったような視線を一身に受ければ、理解出来ていない事などどうでもよくなって、香織は小さく息を吸って白状した。

「法正が好き。恩返しなら……法正が欲しい。」

「よくできました。この報恩、期待してください。貴方が満足するまで愛して見せましょう。」

「うん…っ」

ちゅっ、っと音がして口付けられたのに気付いた時には、法正の手は片方が香織の後頭部を抑え、もう一方が腰と尻を行ったり来たりしていた。まさかこのまま、と思うも、繰り返される口付けを受け入れていれば香織もその気になってくる。もう手遅れだと抗う事をやめて、抵抗するように法正の胸元を抑えていた手を法正の首の後ろへ回した。与えられる口付けを素直に受け入れれば、快感は全身を駆け巡るように熱として伝わって、再び心臓に戻ってくる。

「っ、…苦くはありませんか。」

「平気…。私も飲んだから…あっ、」

まさか初めからそのつもりで今日も毒味をさせたのかと、香織が目を細めると馬鹿にしたような視線を一瞬だけ返され、再び口付けが降ってくる。一度囚われると抜け出せないそれに香織は目を瞑って降伏した。
軽く合わされすぐに離れ、唇を舐められれば溶け出しそうに成る程熱くなり、舌を絡めれば体の境界線があやふやになる気がした。角度を変えて繰り返されるその行為はもはや理由付けなど無意味だと感じるほどに理性など存在しなかった。そうこうしているうちに法正の右手が香織の胸元を這い回り初めて、乱れた襟元から冷たい空気と共に理性が入ってくると流石にそれはダメだと法正の手首を掴んだ。

「なんだ。」

「なんだじゃない。まだ具合悪いんだからこれ以上はダメよ。」

「貴方知らないんですか、こういう時こそそういう事をしたくなるんですよ。」

「だ、だめ!」

香織は出来た隙を突いて法正の上から降り、そのまま牀から遠ざかった。法正の視線の先に気付いて慌てて襟元を正すと、寝なさい、と視線だけ寄越す。法正はこれ以上何かするつもりはないらしく、はぁ、と息を吐いただけだった。

「法正、入るぞ、」

すると、廊下から声が聞こえる。聞き慣れたその声は国主のもので、どうしようと挙動不審になっていた香織は行き場を失って立ち尽くした。

「良かった…倒れたと聞いて心配して来たのだ、…おぉ、天女殿、一晩中法正の看病をしたというのは本当だったのだな!」

法正が起きているのを目に止めた直後、側で立っている香織に気付いた劉備は、呉夫人から聞いた言葉を思い出して感心したように言った。裏切られるような事をされてもなお献身的に他人を看病する姿が劉備の感心を高めたらしく、やはり天女殿は素晴らしい女性だと頷かれるも、どうすれば良いか分からず立ちすくむしかなかった。

「殿、ご足労おかけしました。共も付けずに出歩かれたのですか、」

「いや、入り口に趙雲が。お前を気付かって部屋には入らないというのでな、」

「ふん、」

法正は劉備の前だというのに不機嫌さを隠そうともしない。その2人のやり取りを心配そうに見ている香織に気が付いた劉備は、思い立ったように口を開いた。

「良い事を思いついたぞ天女殿!そなたは客人ではなく我が養女として後宮で暮らしてもらおう。」

急な劉備の発言に、法正と香織は反応が遅れてしまった。

「えっと、私もう二十を超えていて…、養女にして頂くような歳ではないのですが、」

慌てたように否定する香織の理由付は稚拙で、法正は溜息を吐いたが、劉備はそんな事気にも留めていない。

「こういったことは体裁が大事なのだ。天女殿、そなたの優しさが政争の具にされるのは見逃す事が出来ぬ。……良いな、法正。」

「……。」

劉備は香織の優しさを法正や諸葛亮が利用する可能性をなくしたいらしかった。
熱の下がった法正へ数日間は療養することを言い渡した後戸籍の手続きはこちらで進めるという言葉を残して、劉備は部屋を出て行った。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ