長編 蜀

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17【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】


扉の隙間から零れる明かりで法正は目を覚ました。広めの牀には女も寝ており、未だ目覚める様子がない。右手を気だるげに左肩に当てると、やけに肩が凝っている気がする。春先の寒さの中、裸で眠っていたのだから仕方のない事だった。

昨晩はやけに虫の居所が悪く、それだというのに天女様が戻られないと寂しいですね、などと声をかけた侍女を憂さ晴らしに抱いたのだった。何も知らないくせに適当な事を言うからこういう事になるのだと伽の最中に嘲笑ってやれば、涙を一筋流して侍女は唇を噛み締め苦痛に耐えていた。おそらくは初めてだっただろうに、哀れなものだと法正は女を横目に見て再び侮蔑の意味を込めて鼻で笑った。


朝日が登り切る前には城に行くかと、法正は布団から抜け出した。早すぎる時刻に侍女がいないのは当然で、法正は顔をしかめつつ仕方が無いと台所の隣を通りぬけて井戸まで行き、自ら汲んだ水で顔を洗う。
侍女のいない台所を通り過ぎて部屋へ戻れば香織の作った饅頭を思い出した。確か、頭を使う作業の時は甘い物を食べるべきだと言っていたはずだ。最近妙に食欲が湧かず集中力が途切れやすくなっている気がする法正は、物は試しだと甘い物を食べてみる事にした。




「珍しい組み合わせですね。」

城へ行く前に遠回りをして屋台で買った饅頭を見た諸葛亮がそう言った。法正の左手には薄い木の包みに包まれた三つの饅頭が湯気をあげている。ここは人通りの少ない高官の執務室が並ぶ廊下だ。まさかこいつとすれ違う事になるとは予想だにしない事態に、法正は視線だけで応じる事を諦めて立ち止まった。

「俺も甘い物を食べる事くらいありますよ。」

「覚えておきましょう。」

諸葛亮は何の用もないらしく、そのまま執務室へ歩いていく。廊下を進み小さくなって行く諸葛亮を法正は立ち止まったまま見送った。今日は軍議も何もなく奴と顔を合わせる必要のない日だったのにと、朝から眉間に皺を寄せる。思えば最近は不愉快な事ばかりだ。さっさと蜀内の均衡を保ちたいというのに、便利だった天女は逃げ去り、敵方についてしまう始末。劉備からもやり過ぎだと小言を賜り、益州古参の者たちからは責任を追求する声が上がっているという。少し前までは頭を下げ顔色を伺っていた者たちが掌を返す様は、政に携わっている身としては何度も見た光景であってもやはり応えた。ただし、哀というよりむしろ怒の方向でだ。

法正が物思いにふけっていると、諸葛亮の消えた廊下から人の話し声が聞こえてくる。婉曲した廊下を法正のいる方へ進んでくる人物像はだんだんと大きくなって来て、ついには二人の表情がはっきりと分かるほどにまでなった。

「今日は税収の計算をやるんだ。香織殿、計算はできるかい?」

「計算?四則計算くらいなら。典型的な文系だから微分とかは無理かなー。」

「乗法と除法も出来るのか…君は凄いな。」

「えー、徐庶、私のこと馬鹿にしてるでしょ…!」

やけに仲良く話しながら、見知った二人が歩いてきた。方角的にも会話の内容からも、今登城したばかりなのは明らかだ。つまり香織は徐庶の屋敷で一晩を過ごした事になる。じっと視線を向けたまま法正がそんな事を考えていると、徐庶が法正の存在を目に止めた。

「法正殿、おはようございます」

「あぁ、」

「おはよう。あ、甘い物持ってる!ひょっとして法正も今日は机仕事なの?」

「……ええ、そうです。」

法正は再び手にした甘味の存在を指摘されて眉間の皺が増えた。その様子を目ざとく見つけた徐庶は香織が次の言葉を口にする前にと慌てて香織の肩を叩き注意を引いた。

「後で俺の分の竹簡を受け取りに参りますので、失礼します。」

「え?受け取るなら今から行けば良いじゃん。どうせ法正も今から執務室行くんだし、」

「構いませんよ。なるべく早くに取り掛かった方が作業時間も増えて良いでしょうからね。寝る時間も作れるでしょう。」

「何その言い方。私も手伝うんだから早く終わるに決まってるでしょ、」

香織が反論しているのを鼻で笑うようにして、法正は執務室へと歩み始めた。徐庶が香織を宥めるように後方で言葉を掛けているようだが、なんとも砕けた雰囲気である。昨晩のうちに二人の間に何かがあった事は明白で、その上香織の法正への態度も変わっていることが気掛かりであった。情に絆されやすく冷酷な振る舞いの出来ない徐庶が香織に何か余計なことを告げていなければ良いのだが、と法正が考えたところで、執務室へ着いてしまった。

「お邪魔しまーす」

気の抜けた声を出して入ってきた香織に法正はやはり不愉快感が高まる。泣いて馬岱に助けを求めた姿はなんだったのかと問い詰めたいくらいだった。

「おい徐庶、こんな呆けた奴に税の集計を任せるな。いいな。」

「はぁ?何言ってるの計算くらい出来るわよ、馬鹿にしないで。」

徐庶が答える前に香織が法正へ返した。睨みつけても怯むことがないこの女に止めを刺してやろうと、法正は次の言葉を考えて口を開いた。

「雉(キジ)と兎が合わせて二十匹。足の総数は五十四。それぞれ何匹いるか。」

「はぁ?あんた、」

「法正殿、香織殿にそんな事を聞くのは失礼じゃないか、」

「徐庶は黙っていろ。あぁ、書き留めるためにこの竹簡を使って良いですよ。万が一にでも解けるならば、ですが。」

法正が出したのは算術の教本である九章算術の中でも第七章の盈不足(えいふそく)という項目の問題だ。金の計算ならば市場の女でも稀に身につけているが、盈不足となればその辺りの女で解けることはない。後で文句を言わせないためにも筆と綺麗な竹簡を渡し、さぁ解いて見ろと視線を投げつけた。香織は右手に筆、左手に竹簡を握らされたまま固まっている。やはり解けるわけがないのだ。恥を晒したのだから、黙って出て行けと法正は香織の手から竹簡を奪い取ろうと手を伸ばした。

「馬鹿にしてんの?雉と兎が合わせて二十匹。足が五十四でしょ。つまり雉+兎=20、2雉+4兎=54、兎=20−雉を次の式に代入して2雉+4(20-雉)が…54か。これを解くと-2雉=54-80。…2雉が26。つまり雉は13羽で兎は…7匹」

香織は手元の竹簡を法正へ向けて見せつけた。すらすらと迷いなく口から出たのは計算方法だ。鶴亀算とは違うが連立方程式で解いても答えは同じなのだから文句は言うなよと視線で威圧してみるも、法正と徐庶が口を開いたままの要因はそこではなかった。

「す、凄いな香織殿…二つの未知数を二つの式から導く方法も知っているというのかい…」

「ただの連立方程式でしょ?もう一つの解き方の方が苦手なのよね…ねぇ、文句ある!?」

香織が法正へ言葉を投げれば法正ははぁと息を吐いて、ありませんと小さく言った。徐庶は相変わらず凄い凄いと香織を褒め称えている。全く異なる二人の反応が共通して示しているのは香織が解けたことへの純粋な驚きであった。

「…ちょっと。二人とも本当に私が解けないと思ってたの?法正は馬鹿にして問題を出したんじゃないの?」

「いえ、俺は解けるはずないと思って問題を出しましたよ。まさか貴方が解けるとは、純粋に驚いています。」

「まさか…徐庶がさっき香織殿に失礼だって言ったのは、簡単な問題を出した事じゃなくて…解けない問題を出すなんて可哀想だって意味だったの?」

「ええと……うん。」

徐庶は頭をかいた。これでは徐庶も法正と同じように香織を馬鹿にしていたと思われてしまうが、実際に出来ないと思っていたのだから弁解の余地はなく。
香織が何それ、と文句を言い出しそうになるのを止めるべく、徐庶は税収記録の竹簡を香織へも幾つか渡して引きずるように執務室を出た。これ以上法正を刺激されては後が怖い。

「徐庶、以外に失礼だよね。」

「いや、俺は馬鹿にしていたわけでは…」

「はぁ…。ゆとり教育だからって、こんな扱い受けるとは思わなかったなぁ…。必要なら円周率3.14でやってやるわよ、3でも3.14でも労力に大差ないし…ほんとみんな馬鹿にしすぎ!」

わけのわからない事を言い始めた香織を横目に、徐庶は自らの執務室へと急いだ。香織の手を借り、今日は早く終わりそうだと思えば、足取りも軽くなるものだ。
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