長編 蜀

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「へぇ、それで香織殿がここにいるってわけね。」

「そうだよ。馬岱はどうして徐庶の所に?」

「俺は若との待ち合わせだよぉ。」

書庫へ移動中の廊下にてばったり会った二人は並んで歩く。今日はこれから遠乗りに行くのだと世間話をする程には、馬岱はすっかり香織の砕けた話し方に慣れてしまっていた。これで会うのは三回目、会話をするのは二回目だというのに不愉快な顔もせずにいる。馬岱の臨機応変さと香織の誰にでも分け隔てなく接する性格が、うまい具合に溶け込んでいるようだった。

「あのね、話…というか愚痴を聞いて貰いたいんだけど、少し時間あるかな。」

「若が来るまでなら良いけど?香織殿は勝手に抜けて良いの?」

「徐庶に一言声をかけてくる。何処かで待っててくれない?」

じゃあ人のいない厩で待ってるね、と馬岱は厩へ歩いて行った。香織は小走りで徐庶の部屋へ行き、馬岱の馬を見せて貰いに行きたいと言うと二つ返事で許可が降りる。再び廊下をかけて厩へ行けば、馬岱が馬を撫でながら立っていた。馬岱の隣に立った香織はぼそぼそと話を始めた。

「蜀の内情を知って、派閥争いに利用されてる事に気付かされて…どうして良いかわかんないんだよね、私。」

「それはまた今更な話だね。」

「ほんとにそう。私を利用したいのは法正だけじゃなくて、諸葛亮様も…徐庶も。って事に気付かなかったなんて。」

天女なのにね、そういって香織は力なく笑った。香織が毛並みに沿うように指を動かせば。馬は大人しく香織に撫でられている。馬岱はその横顔を眺めていた。派閥争いに対して自分に出来ることは何もない。彼女が乗り越える問題なのだと、馬岱は冷めた目で見ていた。

「この前はありがとう。助けてくれて…本当に助かったの。」

「あぁ、徐庶殿の所まで案内した事?気にしなくて良いよ。」

馬岱の明るい笑顔につられて香織も笑った。二人して笑い合っていると、後ろからかけてくる足音がした。

「馬岱、待たせたな!」

「若ぁ!待ちくたびれたよ!」

香織は一礼をして馬超と馬岱から離れた。若が来るまで、の約束は守らなくてはいけない。



徐庶は執務室を出て廊下を小走りでかけていた。提出書類を届けに来た馬超が今から馬岱と遠乗りに出掛けると言っていたのだ。それならば、少し前に香織が言っていた馬岱と厩に行くという言葉がどうしても引っかかった。執務室のある建物から厩まではそれなりに離れている。馬を見せるなどという軽い用事ならばもっと時間がある時に誘うはずで、そうで無いなら何か重要な話があるか、もしくは馬岱と厩になど行っていないかのどちらかであった。

徐庶が最初に思いついたのは香織が馬岱と共にいるというのがそもそも嘘である可能性で、それはつまりこっそりと法正や他の誰かと合っているという予想であった。徐庶が香織を任されたというのは、監視も含んでいる。ただ雑用を頼むだけなら諸葛亮が行うはずで、徐庶の下に置いたのは監視のしやすさからであった。

「法正殿!」

ばん、と扉を開いて執務室に入れば、法正が一人竹簡に向かっていた。部屋を見渡すものの誰の気配もしなければ、法正が何かを知っている風でも無い。はぁ、と溜息を吐いた徐庶は失礼しました。という言葉と共に慌てて廊下に出て行った。法正は突然やってきて突然出て行った行動を訝しむも、全く心当たりがなくて顔を顰めるに留まった。


徐庶が次に考えたのは馬岱と重要な話をしている可能性で、それはつまり馬岱と香織が内通しているのでは無いかという疑い。まさかとは思うものの何かあっては一大事だと、厩まで全力でかけて行った。しかしながら徐庶が見つけた時には馬超と馬岱に一礼して馬の前から身を引く香織の姿で、特に密談をしていた様子もない。咄嗟に隠れる事を忘れていた徐庶は、こちらに歩いてくる香織と視線が交わってしまい、しまったと思った時にはもう遅かった。

「どうしたの?馬岱と馬超は遠乗りに行っちゃったよ。」

「あぁ…うん。」

「…随分急いでたみたいだけど、私に用事?」

そう言って香織はキョトンとした顔をした。しかしながら少しだけ距離のある普段とは違う雰囲気に、徐庶の頭が警鐘を鳴らした。

「うん。何かあったのかと思ってね。普段とは雰囲気が違うから。」

「え、そうかな?普通だけど?」

香織は本心を見抜かれたのかと驚くも、負けずに隠し通そうと徐庶の隣を通り過ぎて執務室へと向かっていく。徐庶は黙ってそれについて行くが、諦めたわけではなかった。香織が何をしているのか、一通り知っておく必要があるのだ。それは諸葛亮から頼まれた香織の監視のうちの一つで。怪しい動きを見せれば、報告しなくてはならない。


厩のある城門にほど近い場所から黙ったまま二人は城の奥を目指していた。香織は道を覚えてはいなかったが、だいたい大きな通りを歩いていればつくのだということを馬岱と共に通った時に何と無く覚えていたのだ。気まずい、と後ろの徐庶を気にしながら歩いていると、前方から人影が見えてきた。

「あぁ、これはこれは天女様。随分とお久しぶりですね。」

耳にべっとりとまとわりつくような低音が懐かしかった。前方を歩いてきたのは法正だ。

「久しぶりね。元気だった?」

香織はなぜ今なのかとタイミングの悪さを呪いながらも、返事を返した。徐庶しか見ていないのに無視して通り過ぎることが出来ないのは、昨日知った真実に香織の心が動かされているからに他ならなかった。

「おや、俺の元から逃げ去った割りに俺を気にかけてくださるとは。貴方はお優しい方ですね。」

「法正殿、」

さっそく嫌味を吐いた法正へ香織の後ろから徐庶が制止の声をかけた。その声に助けられたと感謝しつつも、両方とも香織自身を必要としていない事を知ってしまっている香織ははぁという溜息を吐いて法正を見た。

「なんか顔色悪いんじゃない?ちゃんとご飯食べてるの?」

以前見た時よりも何と無くやつれた気がするその表情へ、香織は思ったままを告げた。法正は香織のやけに落ち着いた言動に一瞬疑問を抱くも、徐庶を警戒して顔には出さずにお気遣いなくと告げて通り過ぎる事にした。香織はその通り過ぎた後ろ姿を徐庶と共に視線で見送り、再び執務室へと向かっていく。
徐庶の目にはその香織の様子は態度が弱々しくなっているように映り、何か画策しているのではなくて心が不安定になっているのかもしれないと香織の後ろ姿を見ながら眉根を寄せた。




法正のやつれた表情から思い付くのは劉備を弓矢から守って怪我をするという今後の出来事で、徐庶の隣で書き損じた竹簡を削りながらも思わず眉根を寄せてしまう。

「ええと、君さえ良ければ今夜食事でもしないかい?」

「え、」

急にかけられた声に驚いて刃物が竹簡の深くへ突き刺さった。しまった、と思った時には既に手遅れで、その竹簡はもう捨ててしまおうと徐庶が手を出す。

「急に、何、」

「いや、今日は何だか様子が変だから。気晴らしに外で食事をしよう。君が良ければ、だけれど。」

その遠回りな気遣いに香織は現代での出来事を思い出した。控えめな物言いで食事に誘うのは専ら法正だった。優しげな彼の誘い方を香織は好意的に感じていたのだ。こちらの法正はそんな物言いをしないのだが。

「うん…お酒飲みたい、かな」

「酒か…分かった。外出の許可をもらってくるよ。暫く待っていてくれ。」

徐庶はそういって何処かへ行ってしまった。おそらくは諸葛亮のところだろうと思い、香織はその監視の煩わしさに唇を尖らせた。




そこは居酒屋というよりは食堂に近い雰囲気であった。
店内には卓が並んでいる。不思議なことにカウンターは存在しないらしく、壁際に並んでいるのは小さな二人用の卓である。もし自分が食堂を開くならばカウンター席を作ってみようと、隣の卓にて一人で飲む男性客を眺めながらそう思った香織は、ほくそ笑んだ。

「何か食べたいものはあるかい。」

「食べ物は…わからないから、適当にお願いします。」

酒の肴と大きな酒瓶が置かれ、最初に徐庶へお酌して香織も自らの盃へ口を付けた。
久し振りに飲む酒はすぐに体を赤くして、自分にしては弱い酒をゆっくりと飲んだというのに、ぼーっとした視線の先では徐庶が心配そうにしている。

「香織殿、今日は何かあったのかな。その、俺で良ければ話を聞くけど。」

「……。」

香織は酔っていながらも、徐庶に心の内を話すべきではない事は分かっていた。荊州派に属するだろう徐庶に派閥争いに巻き込まれたくないと言ったからといってどうなるというのか。きっと普段以上に困った顔をされてお終いのはずだ。

残り少なくなった盃の中の酒をゆらゆらと揺らしていた香織は、内心では分かっているけれども話さずには居れない気がして口を開いた。自制が効かなかったのは、酒のせいで間違いない。

「法正が天女のお告げを利用して処刑をしたのは個人的な恨みだけではないと知ってしまって…。」

「そうか、」

「蜀内部の荊州派と益州派の対立について知ってしまったから、一方的に法正を責めた事を反省したの…。」

「待ってくれ、それは誰に…まさか、」

呉夫人、と徐庶の口が動いたのが見えて、香織はこくりと頷いた。他の官吏が告げ口したわけではないと伝える必要があるように思ったのだ。

「そうか…確かに、法正殿の処刑は私刑だけではないよ。」

「うん…。今日見た顔、疲れ切ってた。本当に私利私欲を追い求める人は、あんなに疲れ果てるほど仕事をしないと思うもの。」

「そうだね。俺は荊州派だと見られているけど、法正殿の事は軍師として尊敬しているんだ。だから、法正殿を一方的に悪く思ってはいないよ。」

「そっか…。」

徐庶はぽつりぽつりと話す香織の表情を見た。下を見て話をする様は取り乱した様子もなく、現状を理性的に捉えている証拠。感情的なようでそうではないのかと、見直してしまう。

「そういえば、君は劉禅様を後継に相応しいと思っているようだけれど、それは益州派の人々にとって都合の良くない話だから、口外しない方が良いな。他にも伝えるべきことが出来たら、今後は君に話して行くよ。この争いには巻き込まれない方が良い。」

徐庶が思い出した事で伝えておくべき内容はあまりないのだが、それでも情報を公開すべきだと思った徐庶は香織にそういった。派閥争いの根は深く複雑で、どちらがどう考えているのかを説明するのは1日2日で出来ることではなかった。

「わかった。ありがとう。」

力なく笑う香織の表情が徐庶の瞳に焼き付いて、意外にもか弱い部分の存在するこの女性を守らなくてはいけないと強烈な印象が残っていった。天女として政に手を出すにはあまりにも優しすぎる考えと、頑丈に見えてその実脆い心の内を知ってしまえば、手を差し伸べずにはいられない性分なのであった。
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