長編 蜀

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16【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】

二つ返事で劉備が許可したのは丞相府での雑事の手伝いだった。仕事に忙殺されているらしい諸葛亮や徐庶を助けてやってくれと笑顔で言われ、あまりにも早くに認められた自分の希望に香織は呆気にとられるほどだ。

呉夫人には昼の間に後宮を出て諸葛亮の元で働く旨を伝えたのだが、香織の言葉を聞いた夫人は諸葛亮の下へ行くのかと悲しげであった。香織が昼の間に不在になる事よりも諸葛亮の下で働くことを悲しんでいるようで、香織は引っかかるものがありながらも意味を掴めずにいた。




「せっかく後宮で匿ったというのに、あまり大人しくは出来ない方なのですね。」

「す、すみません…」

「いえ、では早速元直の所へこの竹簡を。場所は女官に案内させましょう。元直の下で雑事を行ってください。」

香織は厄介払いのように諸葛亮の部屋を出され、徐庶の下へと行った。香織の手伝える内容は限られているが、徐庶の依頼は竹簡を書庫に戻すことだったり、書き損じた竹簡を削る作業だったりと誰でも出来る内容だったためにすぐに取り組んだ。書庫へ竹簡を戻す作業では覚えたての文字の知識が役に立ち、学んだ甲斐があったものだと香織は誇らしくなった。

「香織殿が手伝ってくれて、とても助かるよ。」

「いえいえ!またいつでも呼んでね。」

徐庶はうん、と照れながら頷いた。香織は仕事が終わったことを諸葛亮へ報告して後宮へ戻る。後宮への門を通れば呉夫人が香織を今か今かと待っており、点心を差し出されてお茶に誘われた。席に着いて落ち着いた直後呉夫人の発した劉備様の気を引く方法が知りたいとの言葉に、香織は呆れたような声を出した。

「ま、またですか。」

「不安なのです。荊州派の方々が劉備様の周りを固めていらして、香織様までそちらへ行かれてしまいました。荊州派の方々が寵愛を奪おうとしていらっしゃるのではと。」

「けいしゅうは…?」

呉夫人は香織へと、蜀の中には大きく分けて二つの派閥があることを説明した。諸葛亮率いる荊州派と、法正の益州派。勢力争いの目下の火種は荊州の国境へどちらの出身をどれだけ派遣するのかということらしい。

「荊州なのだから、荊州の人を派遣するものではないのですか?」

「事態はそう単純ではないのです。蜀の中央はやはり成都。荊州出身といえども、今成都から離れるということは権力を放棄するようなもの。」


益州の人なのだから呉夫人は益州派寄りなのだろうと香織は思った。それで荊州派の動きを警戒しているのだ。後宮での香織への歓迎も、自勢力の人間として見られているからだろうと思えば悲しくなったが、仕方ない事だというのもまた分かっていた。

「今は荊州派の方々が劉備様の周りを固めていらっしゃるのです。きっかけは…、その…」

「もしかして、私…?」

天女の権威を失った法正を追い詰めているというのが実情のようだと、呉夫人は気まずそうに言葉を吐いた。呉夫人が劉備と結婚出来たことは法正のおかげであり、寵愛を得ることで法正を手伝いたいのだという。

「そん、な、ことが…」

「法正様は蜀内を落ち着かせるために奮闘していらっしゃいます。私の婚姻を締結させた後は人員の調整もなさっていて…もちろん、日々の業務も同時に…。」

香織は人員の調整という言葉に引っかかりを覚えた。法正の粛清した人々というのは個人的な恨みで殺されたはずだという認識だったが、もしやと思う部分もある。

「もしかして、太常府太史令殿を処罰したのは…、」

「それも全ては蜀のためです。落ち着かない内部で権勢を伸ばそうと偽りの星読みをしていたそうで、法正様はそれに対する報復をなさったのかと。」

呉夫人は劉備から事の仔細を知り得ているようで、細かい争いの説明も詳しくしてくれた。昔から益州にいた者の中には混乱に乗じて実権を握ろうとするものもいるらしく、劉備を慕う法正はそれを水際で阻止しているらしい。法正に対する劉備の信頼はあつく、法正個人が益州を離れることは無いだろうという話であった。



香織は一人になりたいと自室へ引っ込み、牀の上に腰掛けていた。
処刑のために天女を利用するという最低な行動は許せないものの、法正の処罰には意味があったのだ。香織はどうすれば良いのかと悩むも答えが出ない。とりあえず明日からまた徐庶の下へ行って務めねばと、目を瞑ってみたが眠気がこなかった。
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