長編 蜀

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15【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】


「天女殿は劉禅様が後継に相応しいとお思いのようです。」


諸葛亮の言葉にホウ統と徐庶は安堵した。その顔を見て、諸葛亮の奥義がふわりと揺れる。荊州派の推薦に天女の助言が加われば決まったも同然で、後継者争いをする必要がなくなるということは国政を安定させる大きな一歩だった。

「なんとしても天女様をあちらさんに渡すわけにはいかないね。」

「そうだな士元。香織殿には悪いけど、暫くは後宮で大人しく暮らしていてもらおう。」

3人の意見は定まり、香織の処遇は後宮内での生活に落ち着いた。



「それで貴方がここにいるのね。」

「うん。だからこれから宜しくね、尚香ちゃん。」

翌日には怒りが収まり始めていた香織は、自然な笑顔で尚香と顔を合わせることができた。これから暫くはお邪魔するのに空気を悪くせずに済んだと安堵したが、尚香は納得がいかないらしかった。

「後宮にいても法正殿がした事での汚名は晴らせないのよ。貴方の名誉を挽回できる方法は何かないかしら。」

「うーん…確かに、私が悪い奴だって思われるのは嫌なんだけど。こればかりはどうにも…」

香織には何も考えられなかった。人を殺した代償はあまりにも大きいように思え、償い方など想像も出来ない。

「貴方が天女として貢献すればする程発言の信憑性が増していくのだから、過去の行動も認められることになるのだものね…。」

尚香はその立場ゆえかとても同じくらいの年頃に思えない程の頭の良さで、香織の今後を嗜めるようにそう言った。その事実にはっとした香織はもちろん蜀に天下を取ってもらいたい気持ちはあるが、それで罪の無い人の死を肯定する結果になるのは心苦しくもあり、どちらも背負って過ごせるのか自分とじっくり向き合わねばと、深く頷き返した。

「貴方が気負うことはないのよ。貴方のせいではないのだもの。私は香織、貴方の言葉を信じて貴方に非はないと思い続けるわね。」

尚香の笑顔に釣られるように香織も笑い、自室に戻っていく。その日から暫く、香織が後宮内をうろつくことはなかった。





香織は室内で悩み、自分の汚名は目をつぶる事を決めた。優先すべきは左慈との約束、所詮香織はここを去る身なのだからと思えば、我慢も出来そうであった。

気分の晴れた香織が後宮を散策したいと新しい侍女へ告げると、まずは挨拶を済ませるようにと告げられる。孫夫人以外にも人がいるのかと驚きつつも案内された場所は大層広い部屋で。何やら以前の領主の縁者らしく、彼女がいるからこそ元から益州へいた人々は大人しく劉備へ下っているという面もあるらしかった。余所者が我が物顔で政に口を出しても国が荒れない理由は、それなりにあるらしい。

「お待ちしておりましたのよ、天女様。」

香織の顔を見てにこやかに微笑む女性は呉夫人というらしく、劉璋の縁者なのだという。香織のことを知っているらしくお茶まで出され、少し顔を見せるだけのつもりが長居をする事になった。後宮内はその目的からだろうか、一つ一つの棟が離れているのだが、その棟に入れば個性が際立つ。例えば香織の使っている棟は殺風景。花も初期のものから手を加えていない状態である。しかしこの棟は淡い色の花が足元に咲き誇り、室内の飾り布は落ち着いた色合いであっても光沢がある絹で出来ていた。高貴な人の生活というものをまざまざと見せつけられているのだが、嫌味な感じがしないのは住んでいる人の気品故かもしれない。



「宜しければ、こちらの絹を受け取って下さらない?蜀の絹は中華一の質で、肌触りも光沢も良いのですから。」

善意だろうその好意を苦笑いで受け止め、特にめかし込みたい気持ちもないけれどと思いつつ受け取った。後宮には孫夫人と呉夫人の二人がいるらしいが、あまり交流がなくて暇なのだという。つまり話し相手になって欲しいという相談だったのだが、香織はそれを快諾することにした。香織も後宮ではやる事がなく、ただ身を隠しているに過ぎないのだ。友人は多い方が良い。


その日から二人は何度もお茶をしたり同じ書を読んでみたりという交流を繰り返し、ついには恋愛相談をされるほどの仲になった。呉夫人の恋愛相談とは、つまりは君主である劉備との仲を良くするにはという限定的なものではあったが、恋バナとしては中々の題材である。香織は手の中の蓋碗を見つめるようにして真剣に考え、ぱらぱらとめくる程度であった雑誌の恋愛相談ページを思い出していた。

「男はギャップに弱い…はず。」

呉夫人の悩みとはつまり、どうすればより一層愛されるのかという事に尽きる。劉璋の縁者ということはつまりは劉備と同姓。話によると同姓は結婚しないのが普通らしく、禁忌を犯した形になる結婚はその後の進展が芳しくないようだった。

「ぎゃっぷ…とは?」

「普段との違いです。今まで大人しいと思ってた子が活発だったり、おしゃべりなだと思っていた女性が実は1人でいるのが好き…とか。」

なるほど、と呉夫人は深く頷いた。香織は提案してみたものの、実際にはどうやってギャップを用いるのかまで考えておらず、何か見つけねばと卓に着いたまま周りを見渡した。呉夫人の室内は控えめな色合いの品の良い家具と飾り布で彩られている。蜀の特産品が絹だというのなら、すぐ手に入るのは布であったが、これだけ様々な物を持っていてはギャップになりそうもなかった。

「あ…。」

「どうなさいました?」

「色です!服の色合いを変えてみましょう。」

淡い色の布でなく黒や濃い緑を基調とした衣裳を身にまとえば、普段との印象が変わるはずだと香織は考えた。女性用の雑誌でも、黒系か白系かでまずは大きく好みが分かれるものだ。普段は優しい印象を与える白を基調とした衣裳を着た女性が黒を身につければ、それもまた色気として認識される事は間違いなかった。


絹への刺繍は10日も経たない間に終えられ、黒地に濃い緑の糸を使った刺繍、それから高貴な者だけが使えるという金の帯を身につけて後宮の廊下から御花園を見下ろしていた呉夫人を艶やかだと褒めた劉備が、呉夫人の望む花を植えた庭を作らせているという話が侍女を通して香織にも伝えられた。

人の役に立つのはどんなことであっても楽しいと、香織は新たな楽しみを覚えたのだった。しかしながら、それからひと月もしない間に香織の部屋には呉夫人から送られた絹の衣裳や珍しいという花瓶が飾られていたが、絹の光沢と木綿の肌触りを同列に扱ってしまう香織はまるで満足していなかった。そんなに何度も人の役に立てることが転がっているわけもなく、また後宮内で出来ることも限られている。やはり日中は何か別のことをしなければと腰を上げたのは、その日劉備が珍しく香織の顔を見に来た時であった。

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