長編 蜀

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14【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】



香織を執務室に招き入れて向かい合うように卓に着くと、徐庶は真剣な顔で香織の話を聞いてくれたがさして驚いた様子でもなかった。香織は徐庶の平然とした態度が不思議で仕方がなかった。心優しいはずの彼がまさか自分に同情してくれないとは、政治的なやり取りの中で罪もない人間が死んでいくことに抵抗がないのかと眉を潜めた。徐庶は話し終えた香織から視線を外し下を向くと、一時の沈黙の後にぽつぽつと言葉を吐いた。

「法正殿が君を屋敷に連れ帰った時から、こうなる事は分かっていたんだ。」

「え、」

「法正殿は天女なんて信じていなかった。俺たちは君の出自や過去を洗い出そうとしたけれど、彼は全く興味を示していなかったし。法正殿が君には興味がない事を知っていたんだよ。」

香織の過去や出自など調べても出てこないはずなのだが、それでも戸籍や村人への聞き込みを行ったらしい。最終的には穀物を売り歩く行商に行き当たり、その先は不明のままだという。正解は正解だけれどあまりに怪しい出自に、香織の身柄は暫く法正に預けたままにしておこうというのが城内での結論で。そしてその結論にさえ法正はそうですか、と他人事のような口ぶりで応えたという。

「徐庶、は…私のこと信頼してくれてない、の、かな。」

一転して弱々しく何かを恐れながら語りかける香織の言動に、徐庶は顔を上げて慌てた。

「あ、いや…。そういうことでは…。」

徐庶が香織の目を見たのと香織の瞳から涙が一粒溢れたのは同時で、徐庶は軍袍の内側に折りたたまれた手巾を香織に握らせるとあまり見てはいけないと再び視線を下げて言葉を続けた。

「ただ、城内で過ごしてもらう時には一通りの情報を掴んでおく必要があるから。だから、こうなる事を知っていて君を法正殿の元に留め置いた俺たちにも責任があるんだ。」

どうやら香織が法正からいいように使われてしまうのは予測出来る出来事で、徐庶が驚いていないのは想定通りの結果だからのようだった。下を向いたまま目を合わせてくれない徐庶へ香織は溜息を吐いた。涙は止まったが、やはり両者から見捨てられた気分だ。

「私。これからどうすれば良いのかな…ここには知り合いもいないし、村に帰ろうにも悪い噂が広まってるだろうし。」

「広まってる…だろうね。でも心配しなくて良い。劉備殿ならばきっと、香織殿の話を理解してくれるはずだよ。まずは孔明の所へ行こう。」

香織は徐庶に連れられて諸葛亮の部屋を訪れた。香織の姿を見るなり扇をふわりと揺らして、よくいらっしゃいましたね。と卓へ腰を下ろすように扇で椅子を指し示す。徐庶は隣にいてくれるらしく、諸葛亮と二人きりで話す事にはならないようだった。全てを知っているらしい、諸葛亮は香織が城内にいる理由を聞くこともなく口を開いた。


「お怒りはごもっともでしょう。ですが貴方の話題は城中に広まっています。今は目立つ行動を控えるべきかと。」

「控えるっていっても、今まで通り法正の所にいるのは嫌です。私、あの人に利用されるためにここにいるんじゃないから。」

「では何のために」

「私、蜀の天下統一を手助けするためにここにいるんです。だから、法正のためじゃないし、あいつのせいで私のしたい事が出来なくなるのは困ります。」

香織の必死の訴えが届いているのかいないのか分からない冷たい瞳で、諸葛亮はただただ香織をまっすぐ見ていた。

「天下のために貴方のしたいこと…ですか。例えば何でしょう。地名にさえ疎いと聞きましたが。」

「例えば…次の戦は定軍山で起きるとか。」

「ほぅ。」

定軍山という言葉を聞いて諸葛亮の瞳が一度だけ瞬きをした。

「定軍山で魏と戦います。敵は夏侯淵。」

「地名に疎くとも、戦場の名前は分かる…と。私たちの予想では樊城を巡って呉と交戦すると読んでいますが。」

「そ、それも。それもありますよ。」

香織は久しぶりに過去の出来事を思い出した。定軍山と樊城の戦がいつ起きたのかは全く分からないが、香織の知る限り二つの戦に両方出ている武将はいないはず。つまりそれは隊を二分した事を意味していて。

「北と南に分かれて戦うことになるんだと思います…たぶん。」

「たぶん…ですか。」

曖昧な表現に諸葛亮の扇が揺れた。香織ははっきりと言い切れない自分にイライラとしたが、思い出せないものは仕方がなかった。次のシナリオは何年後の戦なのかを逐一調べてなどいなかったのだから、今更考えて答えが出るわけでもなく。

「待ってくれ、魏と呉を同時に相手にするというのか。そんな事、今の蜀に出来るわけが…」

「元直。天女様のお話は今までも当たっていたのでしょう。信じる価値はあるかと。」

「でもいつ戦になるかは分からないの。だから、もしかしたらまだまだ先の話なのかもしれない。」

ふむ、と諸葛亮と徐庶がそれぞれ考え込み始めた。諸葛亮は頭の中で戦況を振り返る。今後一番初めに動きそうなのは劉備に荊州を取られたと悔しがる呉である。だが、あの呂蒙が真っ直ぐに樊城に攻め込むだろうか。蜀に漢中を攻めさせてその間に荊州を取り戻すというのも、考えられないことはなかった。徐庶もまた同じことを考えていた。香織は何も言うことが出来ずにしばらくその場で押し黙った。すると、気まずい沈黙の中で香織のお腹の音がなってしまう。2人が同時に顔を上げて香織に視線を寄越すから、今度は香織が下を向いた。

「ご、ごめん。今日は村に行ってたからお昼ご飯食べてなくて。」

「いえ。元直、月英を呼んで下さい。」

「あぁ、わかった。」

徐庶は香織の赤くなっている頬を一瞥して部屋を出ると、月英を探しながら香織の様子を心中で振り返った。怒ったり泣いたり恥ずかしがったりと忙しい女人だという感想と共に、先程の発言を振り返れば天女として大事にしなければという思いがある。だが、軍師としての性なのか、法正の元で一年近くも暮らしていた彼女は法正の仕向けた駒の一つかもしれないという可能性も捨てきれなかった。

「いや…考え過ぎか。」

「徐庶殿?何をなさっているのです?」

「え、あぁ…月英殿。」

徐庶に声を掛けたのは廊下の向こうから歩いてくる月英であった。虎戦車の試作をしていたらしく、顔が煤で汚れていた。



二人きりで残された部屋では香織が気まずい空気に押しつぶされそうになっていた。厳密には、気まずい空気を感じているのは香織だけなのだが、それでも喉が押しつぶされそうなほどの気圧であった。姜維でもいればまだ雑談を楽しめそうだが、彼は今頃魏のために働いているはずなのだ。そこまで思いを巡らせて、香織はある人物に思い至った。

「諸葛亮さん、劉禅様って今おいくつですか。」

「劉禅様…。申し訳ありませんがその方の事は存じません。」

「え、劉備様の一人息子ですよ。幼名は確か阿斗君…かな?」

香織の認識では劉備の息子は一人だ。そしてその人物の大体の年齢で今がどのくらいの時期なのかが分かるのではないかと思った。劉備の後を継ぐことが出来るほどの年齢であれば、おそらく定軍山の戦いはもうすぐ。

「阿斗様以外に劉備殿の跡継ぎはいないとお考えなのですね。」

「え、いや。私が知らないだけかもしれません。でも、劉備様の跡継ぎは劉禅様で、阿斗君ですよ。」

諸葛亮の扇がふわりと揺れた。香織はそこに固執する意味が分からないと首を傾げたが、諸葛亮はそれには答えない。

「孔明様、遅くなりました。」

そこにちょうど良く月英が戻ってきた。香織は食事が出来ると思い、笑顔で月英を見ると月英からも笑顔が返ってくる。

「月英、天女様に何かお食事を。それから、城内で寝泊まりするための許可を貰って頂きたい。」

「かしこまりました。」

どうして香織が城に住むのかという疑問は月英の中では浮かばなかったらしい。それほどまでに香織が法正から酷い扱いを受けるのは予想できる話だったのかと思い、香織はがっくりと項垂れた。

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