長編 蜀

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13【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】


簡雍は城内に入るなり流石だと感心した。先に城に着いている法正は城の奥まった場所にある執務室ではなく、城門からさほど距離のない場所を対話の地として選んだようだ。ここならば城主が通ることはおろか、主だった人物さえ訪れることは無い。たとえそれが蜀の隅々まで触手を伸ばしている諸葛亮であっても。そうとも知らず、香織は簡雍の腕を掴んで女官の後を追ってその部屋へ向かっていく。香織が簡雍を連れて行くのは証人のつもりらしい。簡雍が証人には向かない人物である事は、流石の天女でも知る由もないことであった。それにしても猫を被っていた頃とは違い随分と距離が近い。まるで他人を警戒していないその様子にこれこそが天界の住人なのかと簡雍は一人考えていた。

「簡雍さん、お時間頂いてごめんなさい。でも二人きりだと話しにくくて。」

「良いのです天女様。法正殿ほど頭は回りませんが、私めには時間だけはありますので。」

部屋の扉を開ける前に簡雍は拱手し答えると静かに香織の後ろについて入室した。

「なんで私が太常府太史令殿を処刑した事になっているの?」

「……その前に確認しましょう。貴方は劉備殿の天下へ協力すると言った、違いますか。」

「言ったけど?」

「協力するとはいっても、貴方は政において口出しできる能力がない…違いますか」

「…違わない」

香織は唇を噛んだ。つまりは太史令を処刑したのは政治的判断で香織に口出しする権利のない問題だと法正は言っているのだ。そうは言っても他人の命を殺めるようなことに利用するのはやめて欲しいと、もっと有意義な事にのみ利用するように香織は法正へ伝えた。

「それはないな。」

法正は首を振りそう答える。国を動かす上で処刑するのも一つの手法であり、太史令がいれば今回香織を村へ派遣する話も出なかっただろうと法正は言う。香織は不安になって簡雍を見たが、簡雍は黙って頷いた。太史令の仕事に星読みをして吉凶を占い厄災の対策を奏上する事が含まれる以上香織の役割と被ってしまう。実際に太常府は天女の存在に否定的なのだった。

「そうだとしても、人殺しの役割を私に押し付けないでよ!それが出来ないのなら法正には協力しない!」

「協力しない…か、遅いですね。乗りかかった船、ですよ。言っておきますが神のお告げを理由に亡くなったのは太常府太史令殿だけではありませんので、あしからず。」

信じられないという目で法正を見た香織は、法正がまるで茶を傾けている時のような表情で穏やかに話しているのを見て唖然とした。処刑の話をしているのだ、それも、同じ国の人間の。助けを求めるように簡雍を
見ても、簡雍も特には不快に感じていないらしく無表情のままだった。この二人は異常だと感じた香織は、部屋を出て別の人物に助けを求めることにした。

「おい、この部屋を出たところで逃げ場はないぞ。」

「うるさい!」

香織は全力で室内を走り、扉を勢い良く開けて外に出た。厩は人が少なかったので助けを求めるためには逆へ走れば良いと、出てすぐの通りを前も見ずに右へと走った。

「うわっぷ!」

「痛っ、ごめんなさい急いでるの!」

誰かの体に正面からぶつかって一度止められたが、頭を下げる暇はないと視線も合わせずに言葉だけで謝るとその人物の横をすり抜けて行く。

「ちょい!香織殿だよね。何を急いでるのさ。」

「あ、馬岱。ねぇ、助けて。」

初めて言葉を交わす相手に呼び捨てで名を呼ばれたが、身分上は香織が上。少し違和感を抱くも文句は言わずに香織の話を聞くために焦る香織の肩を押さえた。

「落ち着きなよ。徐庶殿と一緒じゃないの?」

「あぁ、馬岱殿。」

香織が理由を話す前に法正が香織の後ろから声をかける。香織越しに法正を見た馬岱は香織の体が強張った事を見逃さなかった。

「馬岱!助けてお願い!」

「馬岱殿、天女様は心を乱されているようだ。お慰めするので部屋に連れてきて貰えませんか。」

「えぇっと…」

香織のあまりの必死さと法正の余裕な言葉に馬岱はどうするべきかと悩んでしまう。香織は巴蜀の天女であり最近馬岱が親しく話す徐庶が信頼している人間で、一方法正は有能な将であるがその実良い話を聞いたことがない。

「馬岱、私を徐庶の元に連れて行って!そうじゃないと馬超に言っちゃうから!馬岱は正義に反する人だって!」

「…ええっ!」

急な言葉に馬岱は目を見開いた。脅し文句が余りに稚拙である事も驚きだが、何故従兄弟の正義感の強さを天女が知っているのか理解出来なかった。精一杯考えた言葉だったらしく、天女は鼻をすすり初め、今にも泣き出しそうだった。馬岱は香織の表情を見た後、法正へ視線を移した。

「法正殿、ごめん!」

「おいっ、」


馬岱の言葉に助かったと安堵した瞬間、香織は物凄い力で手を引かれて廊下をかける事となった。法正の声を耳にしたが、後ろを振り返る余裕がない。

「行ってしまいましたねぇ。」

「簡雍殿、何を楽しそうにしているのですか。」

法正の苦虫を噛んだような表情を見て、その原因がとても頭が良いとは言えない天女にある事も含めて簡雍はくすりと笑った。鋭い視線が飛んでくるものの、今はそれよりも楽しさが増している。麓の村までの天女の護衛任務など、つまらない仕事を任されたものだと思ったのだが、これだけ楽しめれば満足である。

「馬岱殿には呆れますよ。参謀の俺より天女の肩を持つとは。」

「天女というより馬超殿の、でしょうな。」

二人はその後、何を言うでもなくその部屋を離れそれぞれの執務室へと戻っていった。



どのくらい走ったのか分からないが、随分な距離だと思う。馬岱が徐々に速度を落として立ち止まると、香織は後ろではぁはぁと息を乱している。

「大丈夫?」

「馬岱、はや、っはぁ…。」

息を乱しているにしては整うのも早く、深窓の姫君というわけではないのかと馬岱は香織を観察した。顔や手の色は白く、どうにも力仕事をしている風ではないが、口を抑えている指先が少し荒れているのが気になった。

「ねぇ、なんで法正殿から逃げてたのか聞いても良い?」

「あいつ、私を利用して太史令を処刑したらしくて…絶対許さない。」

理由を述べているような穏やかさではなく、怒りを吐き出した内容だったが、馬岱は大方の事を理解してしまった。つまりは法正の報復に利用されたのだろうと思い、天女と言いつつも所詮は政の道具に過ぎないことを哀れに思って視線を反らした。

「徐庶殿の執務室はもう少し先だよ。ほら、こっちこっち。」

「うわっ、もうちょっと休憩しようよ!」

「だーめ。残念だけど俺もやることが残ってんのよ。天女様を徐庶殿に届けたら若を探しに行かなきゃ行けないからさ。」

馬岱は香織の手を引いて、再び徐庶の執務室を目指した。

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