長編 蜀
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12【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】
その日伝えられたのは香織にとって衝撃的な依頼だった。香織は医師でも看護師でもなく所詮はただの学生。村を救ったと言っても風邪を治したに過ぎない。それなのに村で流行っている病を治せる人間としてみなされているのは中々の重責で。香織はため息をついて共に廊下を歩む徐庶に話を振った。
「あのね徐庶、私…どんな病でも救えるとか、必勝の策を知っているとか、そういう訳ではないのよね。だから、これで失敗したらどうしよう。」
「そうなのかい、俺はてっきり…。いや、劉備殿は信頼して頼んだのだから、君が精一杯取り組んだ結果救えなかったとしてもそれは仕方が無い事だと分かってくれるよ。」
冬に流行する病といえば風邪であることが最も望ましいと思いながら、香織はその村へ訪れる事にした。
久しぶりに城下を離れ城門を出て開けた道路を歩けば、木々は冬の様相を見せて空は全てを覆うようにどんよりとしていた。村に着いて馬車から降りた香織は歩きにくそうにしながらも村の中へと歩みを進めた。法正は遅れてやってくるという。知らない人間に囲まれて移動しなければならず、居心地が悪くて仕方が無い。簡雍という武人が香織の隣で気だるそうにしながらも護衛のような役割をしているが、他人の目がない方が動きやすかった。
「あぁ、天女様…こちらです、こちらに…」
村長らしき老人が香織に案内をするとやはりそれぞれの自宅で寝起きをしているらしい流行病の患者は高熱と咳に悩まされているという。風邪か流感ではないのか、むしろそうでなければ対処のしようがないと願いつつ、香織は最初の村で行った通りの対処をした。それはつまり患者の隔離と手洗いうがいの徹底であり、今回は劉備の依頼も兼ねているためにいくらかの漢方薬を処方してもらえるようにその場で簡雍に伝えた。簡雍は言葉を交わせれば交わすほど法正のような印象をえる人物で、ついつい軽口を叩きそうになるのを香織は必死に我慢した。
村人に指示をして患者を集めた小屋では室内で湯を沸かすように頼み、小屋の四方から湯気が立ち込め湿気を充満させると一仕事終えたと香織は小屋を出た。すると、何やら漢服をきっちりと着込み背筋を伸ばした官僚らしい男が香織を見ているのに気付いた。簡雍は帰りの馬車を準備するように指示を出しに行ってしまった。
「これはこれは天女様。このようなところまでご足労頂かなくとも、貴女様の事ですからありがたいお告げを城内にてお伝えになれば良いではありませんか。」
「え、お告げ?」
「ええ、太常府の太使令殿を処刑台へ送ったのは貴方の予言によると伺いましたよ。一度も顔を見せずに人を殺めるとは、いやはや天女とは恐ろしいものです」
「え、なに、」
天女殿、と後方から声がかかって、振り向けば簡雍が法正と共に香織を呼んでいた。いつ来たのか分からないが法正も到着したらしく、香織は目の前の男に一礼して法正の元へと小走りでかけた。
「ちょっと!」
「いかが致しましたか。」
「太史令を処刑してなんてお告げ、私はしてないんだけど!いったいどうなってるの!」
駆け寄るなり法正へ怒鳴りつけた香織を見て、簡雍は目を丸くする。先程までの簡雍への態度とのあまりの違いに、言葉を挟む事も忘れるほどであった。
「その話は屋敷に戻り次第致しましょうか天女様。さぁ、馬車へ。」
「今説明しなさいよ。なんで私が人を殺してるのか!」
法正の眉間に皺が寄り、言うことを聞かない香織を睨みつけた。それは普通の女性であれば確実に押し黙るほどの威圧感であったが、香織は怯む様子が無い。むしろ睨み返すようにして、法正を見上げていた。
簡雍ははっとすると、おどおどとした村人の視線をちらりと見た後に二人の間に入った。
「お二人とも、このような所で話しては問題も解決致しませんよ。天女殿、法正殿の屋敷ではなく城で話をしては如何ですか。」
「それなら良いわ。簡雍殿、私を簡雍殿の馬に相乗りさせて貰えませんか。」
「おい、おまえ…大概に、」
「私は構いませんよ。景色を眺めながら城に帰りましょうか。」
法正は香織にも届くため息を吐いて馬に跨ると、何も言わずに城へと向かった。おそらく香織の側にいた役人は荊州派の文官だろうと予測し、益州派に押されて荊州の守備へと回された仲間を思っての発言には憐れみよりも苛立ちを覚えた。
「簡雍さん!私、大史令の人を処刑するなんて言ってません!」
香織は馬上でも怒りが収まらないようで、簡雍にその思いをぶつけていた。被っていた猫は脱ぎ捨ててしまったらしい香織の態度を簡雍は好意的に受け止めていた。酒宴で隣りに侍らせるのは向かないが、現在の退屈凌ぎにはなりそうだ。
「そうなのですか。ではいったい誰が。」
「法正に決まってます!許せない、きっとあいつは私を利用するつもりで天女だと言って村から攫ったんだ…。」
「何を考えておられるのでしょうな…。」
簡雍の予測も全く同じで、とてもじゃないが法正を擁護できずにいた。法正は報復に徹することで有名で、荊州派だけでなく、身内であるはずの益州派からも恐れられている。法正が天女を得たというのは勢力内での発言力を強めるためであって、法正が天女などという存在を信じているとは到底思えなかった。
城門が大きくなってくるに連れ香織が黙り込んだ。いったいどんな風にあの法正を問い詰めるのかと、簡雍は静かに笑った。