長編 蜀

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11【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】

香織の部屋には連日のように文字の読み書きを教える師が訪れた。現代で大学といえば高等教育。6歳から10年以上も教育を受けた者にとって文字が読めないなど言語道断だった。ゆっくりで良いのです天女様は覚えがよろしいですね.、と褒められる度に馬鹿にされた気になる。そう言われる度に返って文字の手習いへと精を出した。

「香織様、そのように根を詰められてはお体に触りますよ。」

「うん…。なんか筆が難しくて。絶妙な力加減で太くなったり細くなったりするのよね。」

香織は背伸びをすると外の台所へ行った。屋根だけが付いたそこは冬には凍えるほど冷えるが、竈の前は暖かい。香織はリンゴを切って竈で煮て、二つの皿に盛って数滴の蜂蜜を垂らすと、お茶と共に盆に乗せて先ほど帰ってきたらしい法正の元へと向かった。

「法正様、天女様がお越しです。」

どうやら法正の居室は北の棟の中にあるらしく、普段呼びつけられるのとは異なる部屋へ連れられた。香織はの持つ盆の上からは蓋の隙間をすり抜けて湯気が登っている。最初の頃は天女様のすることではないと茶葉にさえ触れさせて貰えなかったのだが、最近は気分転換に良いからと押し切って自分の分だけは淹れさせてもらえている。村にいたころに使っていた道具といくらか異なる物があったが、基本は同じであった。今日は他人に茶を淹れる初めての機会である。扉を開ける許可がおりて香織が歩みを進めると、法正は着替えたばかりのようで普段屋敷内で纏っている漢服の帯を結んでいるところであった。

「おかえりなさい。お茶にしない?」

「かまいませんが、そのお茶はあなたが?」

「そうよ。村では料理もしていたもの。」

そういえばそうだったと法正は思い出した。天女だ天女だと思い込んでいたからすっかり忘れていたが、元々は村で生活していたのだから茶くらいは淹れられるはずだった。自分も随分と天女に影響されているのだなと小さなため息を吐き、てきぱきと宅の上へ茶と皿を乗せている香織を見た。

「その皿の上の物はなんですか」

「りんごよ。甘く煮たの。砂糖が無いから蜂蜜だけど。りんごと蜂蜜って相性が良いし、平気でしょ。」

法正が円卓の反対側に着きながら疑問を投げると、はきはきとした答えが返って来る。隠し事をしているわけでもなさそうだが、見たこともない食べ物だった。今年は戦があったにしては豊作で、蜂蜜も大量に取れているのだから遠慮せず使えば良いとも思ったが目の前に出された暖かい茶を飲めば言葉も共に飲み込んでしまったように落ち着いたので法正にしては珍しく言わず仕舞いだった。

「それで、何が目的ですか」

「え、特に何も無いけど。気晴らしに作ったついでのお裾分け…かな。あ、あと、文字の先生を呼んでくれてありがとう。」

茶を飲んだ後、何の要求なのかと身構えた法正は探りを入れるように問いかけたが返ってきた言葉はつまらない程呑気な物だった。報恩と報復を標榜する法正には理解出来ない行為だ。

「よーしそれじゃあ文字の勉強再開するから失礼するわね。お邪魔しました。」

「あぁ。」

香織は法正の蓋碗に湯を足して卓に残すと、他は全てを盆に乗せて出て行った。法正は暫く卓に座ったまま香織に何があったのかと考えるも何も思い付く事が無い。女の行動なんて突拍子も無い物ばかりだと無理やり結論付けると、家での仕事を始めることにした。





どうやら竹簡の古さによっても書き味は変わるようで、それらを瞬時に見極めて筆を走らせる必要があるようだった。朝起きて暗くなるまで文字の読み書きに精を出す様子は侍女を通して法正へ伝わる。変わった女だと思いつつも、外に出て変な問題を起こされるよりましだと暫くは放っておいたが、冬になる頃に問題が発生した。香織の住んでいた村の近くで疫病が発生しているという。劉璋の統治下では村の疫病など見捨ていたも同然だが、劉備はそうもいかない。村人の半数が疫病にかかり、そのまた半数が死んだと聞いた途端に、天女になんとかして貰うしかないと言い始めたのだった。しかしながら、法正の報復は未だ完了せず劉璋の下で受けた仕打ちを報復したい人間が残っているのだ。それらを片付けるまでは天女を病で失う気などさらさらなく、天女を寄越す前にまずは薬師を派遣してはどうかと話を先延ばしにしたのはもう半月ほど前の話であった。




香織はその日、午前中を読書に当てて午後から文字の練習をする事にしていた。昼過ぎには1度台所へ寄り、気分転換の料理として饅頭を侍女と共に作る。餡の中に黒胡麻を淹れて甘みを緩やかに加えたそれは試作品であるが、黒胡麻餡の美味しさを香織は既に知っているため自信があった。侍女は香織の変わった提案に首を傾げながらも手伝ってくれ、最近ではよく話もするようになっていた。


「香織様、法正様がお呼びです。」

「え、今墨を擦って準備したばかりなのに…放置したら乾くよ…。」

ぶつぶつ言いつつも、曉燕が返答しない時は香織の意見は通らないのだということを認識している香織は、筆を置き立ち上がって背伸びをすると、曉燕の後に続いて法正のいる北の棟へ向かった。

途中で台所から声が掛かり、蒸しあがりましたの言葉に目を輝かせた香織は曉燕に何も告げることなく台所へ寄り道をすると茶と饅頭を盆に乗せて再び曉燕の元へと戻った。呆れたような視線を感じるもの、もはや慣れていて気にする事もない。

「ご足労感謝します」

「いいえ。ねぇ、これ食べながら話しよ?」

何度か繰り返した帰宅後の一服は法正の中でも受け入れられているらしく、香織が持ってきた茶に抵抗なく口を付けるようになっていた。香織はそんな小さな違いを気にも留めていなかったが、曉燕は二人の距離が近付くのを嬉しく思って1人部屋の隅で笑顔になった。

「ほぅ、胡麻ですか」

「うん。胡麻を入れると適度な甘みが出るから。甘すぎる物は嫌いだって言ってたでしょ?」

香織が言うに頭を使う時は甘いものを食べる必要があるとの事だったが、法正には甘い物を食べる習慣がなく理解できなかった。たわいない話を一通りした後に香織はどうして呼ばれたのかという疑問と共に法正を見た。その表情を受けた法正は茶を飲み込んで口を開く。


「明日、劉備殿と謁見して頂きたい。」

「もしかして出陣関係?定軍山って、こんなに早いんだ。」

「定軍山に出陣?違います。内政に関する要件のようですよ。あぁ、仔細は殿から話があるそうなのでそこで聞いて下さい。」

香織は法正が定軍山に反応したのを聞いたがひとまず置いておいて、分かったと言った。

「なるほど、天女殿の予言では次の戦は定軍山ですか。ふん…悪くない。」

「うん。でもいつやるのかとか勝ち方は…分からないんだよね。ごめん。」

「いえ、戦地が知れただけでも設け物です。策は軍師がいれば充分ですよ。」

法正はニヤリと笑い視線を反らした。もう定軍山の策を考えているのだと香織は思い、その思慮深さに尊敬の念を抱いたが、顔に出さないようにして部屋を辞した。明日は城に行くことになるのかと思うと気が重い。一月ぶりの事であるが、城にはあまり良い印象がない。軍師に挟まれての会話や血だらけの庭、二日酔いや城内の複雑そうな人間関係など、楽しい思い出がなかった。一つあるとすれば、

「お城に行けば徐庶がいるかな?」

香織が少しだけ心を開ける人間がいることだ。良ければ文通相手になってもらおうと、香織は再び日が暮れるまで文字の練習を行った。






こちらでお待ちくださいと言われたまま馬車を下りた先に敷かれた長い階段を前に呆けていると、徐庶が上から足早に降りてきた。

「すまない、待っているつもりだったんだけど、仕事が伸びてしまって」

「良いの。仕事中だもの、気にしてないから。それよりお迎えありがとう。」

香織は笑顔で徐庶に対峙して、共に階段を登っていく。どうせ登るのだから上で待っていてくれれば良かったのにと思ったけれど、それが徐庶の性格なのだと分かってきたため何も言わなかった。
法正だったら恐らくは登り切った先で待っているはずだ。徐庶の心配りに、香織は自然に笑顔になった。ゲームの向こうにいた時から優しいとは思っていたが、実際に会ってもやはり優しい。

「徐庶殿、この人が天女様?」

「あぁ、そうだよ。」

馬岱が階段の上から香織と徐庶を見下ろしていた。香織は あ、という感嘆の声を小さく漏らしたが、それは徐庶だけにしか届かず。
香織はこれ以上天女の威厳を貶めてはいけないと、馬岱の前で少しだけ頭を下げると、足早に謁見の間へ向かった。

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