長編 蜀

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10【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】


香織が目を覚ますと、いつもと違う天井が目についた。普段は花や草木の柄が入った装飾のある天井なのだが、今日は何も描かれていないシンプルなものであった。そう言えば昨日は紹介された後に酒宴を開いてもらったのだったと思い出せば頭の痛さを認識してしまう。ここはどこなのかと上半身を起こして辺りを確認すれば見たこともない牀の中にいた。布団を見てもどこなのかは分からず、仕方なく二日酔いで重い頭を押さえながら部屋の中を彷徨えば、扉の外から失礼しますとの声がかかった。

「天女様へお着替えを。それから今日はこの部屋でお休み頂いても構わないそうです。法正様は急用なのだそうで。」

曉燕は部屋に入るなり香織の顔を洗う手伝いをしてくれた。頭が重いために再び眠りたいと伝えれば、ではこちらをお召しくださいと寝間着を差し出される。いったい誰のものなのか分からないが、素朴な質感の割にしっとりとした肌触りの良い寝巻きであった。香織はそのまま寝直し、再び目が覚めれば昼を回っていた。頭もいくらかスッキリとしていて、運ばれて来た昼食を食べれば完全に普段通りだ。

「午後はお散歩をしようかな。ねぇ、曉ちゃんも行かない?」

「残念ですが香織様。法正様からのお言伝で、部屋からは極力出るなと…。」

「えっ!じゃあずっと部屋で過ごすって事!?何それつまんない…。」

香織がぶつぶつと呟けば曉燕は困った顔をして視線を逸らした。貴人の日常ではよくある事なのだが、香織の性格を考えれば一日中部屋に閉じ込められるのは苦痛だろう。しかしここは城内で、法正の言い付けがなくとも軽々しく外に連れ出すわけには行かなかった。香織はうろうろと部屋の中を歩き、机の上に出されていた地図を見た。それは記憶の奥底で確実に見たことのあるもので、恐らくは成都とその近郊の都市を示していて。成都北東部へ付いている印はおそらく定軍山。香織の知っている知識では次の戦場の予定地だった。香織は定軍山の載った地図を一通り眺めたあと、卓の上に座りふてくされたまま肘を付いて全身で不満を露わにした。

「っていうか、何処にも行けないなら早く帰りたいんだけど、なんで帰れないんだろ…ほんとヒマなんだけど。」

曉燕は法正の思惑など知らず、警備のためには仕方が無いと言った。しかしながら香織の言葉に答えるように扉が開き、隙間からは香織が一方的に見知った顔が覗いた。

「天女様、孫夫人がいらっしゃいました。」

香織の馴れ馴れしい呼び方を未然に防ぐように、曉燕は先手を打って呼び方を伝えた。椅子から立ち上がり、孫夫人に拝謁致します、と教わった通りの拱手をした香織は内心ほっとして、しかしながらどうして急に現れたのかと疑問に思ったが、劉備の妻に向かって何用ですかなどと失礼な事を聞くわけにはいかない。香織は黙って小首を傾げた。

「一緒にお茶しない?本当は昨日話したかったけれど、そんな感じではなかったでしょ?」

香織は昨日の酒宴を思い出し、そう言えば会話と言えるほど話したのは張飛と張飛と張飛と、それから徐庶と月英くらいだった事を思い出して苦い顔をした。明日あたりには確実に法正の嫌味が降ってくる気がして、けれど全く言い返せない失態だった。


香織はそのまま尚香に連れられて城の中を歩いた。何処に向かっているのか分からないほど何度か角を曲がり、結構な距離を歩いている気がする。不意に後ろを振り返ったが、曉燕は付き人としての顔を崩さず、香織から視線を反らすので話しかけることも出来ない。諦めて尚香に付き従っていると、前方の大きな扉を背にして誰かが立っているのに気付いた。

「奥方様、いったいどちらへ行かれていたのです。」

「天女様をお迎えにね。お茶にしようと思うの、趙雲も如何かしら。」

二人の会話を香織が少し後ろで聞いていれば、趙雲と視線があった。そのいやに鋭い視線に歓迎されていない事はすぐに理解出来たが、その代わり場を辞する言葉が思い浮かばずに香織は困った。やっぱり帰る、とはさすがの香織も口に出せない。

「孫夫人、恐れながら、」

「良いのよ。私が通すと言っているのだから良いの。早く行きましょ?」

尚香は趙雲の視線を振り切るようにして奥宮に足を踏み入れ、香織もこそこそとしてそれに習う。趙雲の視線にひやひやとしたが留まる訳にもいかず、蛇に睨まれた…とはまさにこのことだった。

居室ではなさそうだが艶やかな調度品の揃う部屋へと招かれ、卓に着けばお茶を差し出された。

「もう、嫌になっちゃう。最近呉との関係が良くないからって、私まで行動を制限されるんだもの。」

「呉との関係が…?あ、そっか。…あ、そうですね。」

うっかり出てしまった香織の素の返事に尚香はにやりとし、曉燕は鋭い視線を投げかけた。香織ははは、と笑いで流そうとするもそこまで優しい相手ではなく、それで良いのよと言われてしまっては素を出して話す他なかった。

「孫夫人は、えっと…他の人と上手くいっていないの?」

「尚香よ。…玄徳様は今まで通りなの。でも周りがね…仕方のないことだわ。だとしても、奥宮には知人もいないし、全然つまらなくて。」

「私もこっちには知人が少なくて、そういうのって寂しいよね。帰りたくなるっていうか…。」

もはや友人と話しているのではないかという口調に、曉燕の視線が香織に突き刺さり続けるも効果を出せず。挙句尚香から法正には内緒にしてあげてねと言われる始末だ。

「権兄様は勿論だけど、大喬や陸遜達が懐かしいわ。みんなで騒いだりお茶したり。私も帰りたいのよね。」

尚香は綺麗な顔を膨らませて、そのままの流れでお茶へ吐息をかけた。可愛い仕草に香織は目を奪われながらも、お姫様というのも楽ではないななどと考えていた。

「でも、蜀が天下を統一すれば呉へ帰るのもきっと叶うはずだよ。」

香織は尚香の立場が悪くならないない未来を知っていて、そしてそれは劉備の仁の心によって実現される事も分かっていた。映像を思い出した香織は目を細めながら茶を口にする。

「ふーん。天女様ってなんでも知っているのね。」

「なんでもってわけじゃないけど、例えば陸遜が凄くかっこいい事とかは知ってる、かな…。」

ムービーで見た陸遜を思い出してそういうと、尚香は実家の話しができる人物が現れたと、嬉しそうに話を始める。凌統陸遜甘寧の三人は仲が良い事や、小喬と周瑜の話を始めると関を切ったように言葉が出てきた。中には分からない人物もいたが、その都度聞けば必ず知っている人物と繋がっていて。尚香の楽しそうな話し声に耳を傾けていれば、いつの間にか退屈なはずだった1日も終わりを迎える時間になっていた。
夕日に目を細めてはっとした香織は、尚香へまたお茶を共にする約束をして奥宮を出ると、奥宮の侍女に案内されながら足早に法正の室を目指した。




「これは天女殿、遅くまでお忙しいことで。」


香織の努力も虚しく、法正の執務室に入るとすぐに嫌味が飛んできた。

「孫夫人にお茶に呼ばれておりました」

孫夫人の名が出れば法正も言い返すことは出来ない。劉備の妻へ、仕える者が文句を言えないことは香織も知っている事で、それ以上の言い争いには発展しなかった。

「城内で大人しく出来なかったことは目をつむりましょう。俺は今とても気分が良い。今から城を出る準備をしてください。早めに帰らねば、何か問題を起こされてもかなわない。」

「あっそ。」

香織は法正の言葉にさして興味もなさそうに答えると、帰り支度をして馬車へと向かった。やけに音のする馬車は帰りも同じで、香織は夜道に響くガタガタという音に不愉快になりながらも法正と共に大人しく座っていた。城門を出てから大きな道をひたすらまっすぐ駆け下り、城下町に出ればすぐ近くに法正の家がある。城へ近いことは恐らく身分の高さを示しているのだろとぼんやりと思った香織は、それは香織の故郷で言う江戸時代の知識であったことを思い出して、その話はここの誰とも共有出来ないことを実感した。尚香の言ったつまらないという言葉が香織の中で思い出されて、確かに知り合いのいないところで一人で過ごすのはつまらないと、再び納得するはめになった。

「急に押し黙ってどうしました。」

「え?別に。尚香ちゃん、寂しそうだなと思って。」

「ふん。同盟で結ばれた婚姻なんて所詮はそんなものです。せいぜい殺されないように願うしかありませんね。」

「こ、殺させないわよ!っていうか、殺させないようにするのがあんたの役目でしょうに」

法正は他人事と言った風に尚香の運命を軽んじた。香織は今日話しただけで尚香の人柄の良さを好きになっており、そんな法正の態度が気に食わなかったが、法正は香織の暴言を聞き流すように小窓から窓の外を覗くとそろそろ着くぞと言った。




「う〜ん。やっぱり自分のお布団って最高!」

香織は西棟にある居室へ戻るなり身支度を整えて、牀へ駆け込むとぽすんという音が出そうなほどすぐにうつ伏せで横たわった。昨日の簡素な牀と比べれば布団はふかふか枕も柔らかく、牀の木目も美しくて、随分良い待遇なのだと実感せざるを得なかった。法正も意外と良い人ではないかなどと思いながら仰向けに寝直し、見上げた先には格天井。やはり相当良い建物なのだろう。香織はどうしてこんなに良くしてもらえるのかと考えるも、理由が思い浮かばない。唯一それに近いのは天女の威厳を保つためで、その割りには自分の振る舞いが威厳とはかけ離れたものであったなと反省したが威厳なんてものを持ったことも使ったことがないのも事実なので香織はどうにも上手く出来ない自分を恥じて、せめて邸内で大人しく過ごしてやろうと思うに至った。





「今日は邸内にて過ごすようにとのことでしたが、邸内であれば何をされても構わないそうです」

翌朝、早くから法正は出かけてしまったらしく香織は起きるなりそう告げられた。香織が着替えを始めると、曉燕がそろそろ冬の衣類を作らねばなりませんね、と言っていたが、香織は気乗りしなかった。再び巻尺でぐるぐる巻きにされるのも、何度言っても動きやすい服装にしてもらえないのも嫌で、以前村にいた頃着ていた自分の服を切るのは禁止されているし、このひらひらとした裾の長い衣装が足かせのように思えた。そんな下らない感想と共に麓の村の様子が思い出される。村人は寒い思いをしていないだろうか、畑に巻いた作物は秋の間に収穫したのか、収穫した後の葉や茎は燃やして灰にした後土に混ぜる予定を伝えたがちゃんとしているのかなど、思い出せばきりがない。じっとしていなければいけないと分かっていてもじっとしていたくないような事ばかり思い出されるのは、試験前になると急激に部屋の掃除をしたくなるようなものかもしれないと思い、こんなところまで来ても全然変わっていない自分に香織は一人笑った。

「そうだ、文字の読み方や書き方を教わる事はできる?」

「それならば、先生を付けて頂けるかと。」

「先生?曉ちゃんじゃだめなの?」

「私は文字を読めませので。」

曉燕の実家は貧困でもないがそこまで裕福なわけでもない。それゆえ曉燕は文字が読めなかった。だからと言って困る事はないので、香織が文字を教わりたいといった時にはよほど勉学に前向きなのだなと思ったほどだ。香織は先生を付けて文字を教えてもらうのは明日以降にするとして、今日は邸内で大人しく過ごそうと決めると、まずは庭に出て池の魚に餌をやる事にした。


こうして退屈な日々は幕を開ける事となり、法正の思惑を香織が知るのは、それから暫くしてからのことであった。

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