長編 蜀

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9【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】




香織は視界がフラフラと揺れ、頭がぼーっとしていた。大きな卓を囲む人々の顔ぶれは香織が顔を知っている人も多かったが、中には知らない顔の者もいて。香織がふいに右隣を見れば、法正が静かに杯を傾けていた。
左には月英が座っている。先ほどまでは張飛がいたという記憶があるのだが、今は何処かへ行ってしまったらしい。飲ませるだけ飲ませておいてなんて扱いだと思うも、香織は久しぶりの酒を楽しんだことも事実だった。

「あぁ酔った…私外で風に当たってきます。」

「ご一緒しましょう。お一人は危ないですよ。」

ふらふらと立ち上がった香織に月英がすぐさま支えるための手を出した。

「すみません。お願いします…なんか凄く酔ったみたいで…」

「では、共に参りましょう。」

法正が口を挟まなかったのは香織と言い争いになるのを避けるためだった。自宅なら未だしもここで軽口の応酬を始めるわけにはいかない。言いたいことは沢山あったが、張飛に飲まされたことも、昼に庭から戻って以降徐庶に軽々しく名前で呼ばれている事も、自宅で問い詰めれば良い事だった。

「法正殿はあの天女を本物だとお思いですかな?」

「……。」

「麓の村の噂とは随分異なるようですなぁ。なにやら大層美しく、可憐でに知に満ちた女人だと聞いたのですがそのようには到底思えぬ。あのように酒など煽っては星見の腕も鈍りましょうなぁ。」

司祭を司る太常府に勤めている男が法正へと言葉を投げた。どうやら太常令の代理として出席したらしい。静かに酒を煽っていても内心に燻る火種は熱く、法正の機嫌は床の上ぎりぎりにあった。

「さぁ、本物かどうかなど、誰にも分かりますまい。しかしながらあなた方よりも知に優れているのは事実。反論があればお得意の星見で流行病の一つでも治めて頂きたいもの、ですよ。」

法正はわざとらしいため息を吐くと盃を卓へ叩きつけるように置いて席を立ち、香織の出て行った方角へ歩き出した。香織が何処へ行ったのかは分からないが、散歩しながら探せば良いとひとまず外へ出ることにする。何故自分が探さねばならぬのか、放し飼いにするのはとても面倒だ…と、今後はなるべく自宅内で過ごさせなくてはと再度心に留めた。法正へ声をかけた官吏はその場に取り残され、酒の零れた卓上の盃を見つめ顔をしかめた。太常府の太史令から天女と法正の間を絶てと指示を受けたが、口車に乗せるだけでは効果がないようだ…と、少々面倒ではあるが次の機会を伺う事とした。


法正がしばらく歩けば、香織と月英の二人が庭の椅子に座って何やらこそこそと話している。

「じゃあ月英さんが兵器を作るの、今度見てみたいです」

「えぇ。城内で作っておりますので是非お越しください。」

「あ!徐庶、私も飲む飲む!」

「香織殿、君は飲み過ぎなんじゃないかな…」

徐庶もいるのかと舌打ちした法正は、その3人から少し離れた廊下の隅で様子を見ながら酔いを冷ます事にして、一人静かに夜風に当たった。





「う〜。眠くなってきた…」

香織はゆったりとした3人だけの雰囲気に気が緩んだのか突如襲って来た眠気に贖うように左手で頬を軽く二度叩いた。余程酒が好きなのか、徐庶から奪い取った盃は右手に握ったままだ。月英はその行為に目を細め人知れず笑うと、天女といっても普通の女性のようですと言っていた夫の言葉を思い出した。

「部屋を用意させましょう。暫くお待ちください。徐庶殿、頼みますよ。」

「えぇ。ほら香織殿、もう杯を置こうか、飲みすぎてはだめだよ。」

「うん…やだ」

法正は向こうの勝手で部屋を用意されては困ると、足を踏み出して3人の前へ姿を見せた。静かな場所へ突如聞こえた足音に反応した香織は顔を赤くし半分閉じかけた目を法正へ向けて、法正、と呟いた。法正は距離があり聞こえていないらしかったが、徐庶と月英はその香織の吐いた言葉に少しばかり二人にとっては良くない情が込められている気がしてまさかと確かめ合うように互いに目を合わせるが、二人して感じ取ったそれは昼間の香織の態度からは到底想像出来ないもので、徐庶は月英へ首を振って否定の意を示すと、法正へと声をかけた。

「法正殿、香織殿はもうお休みになった方が良いかと。月英殿に頼んで部屋を用意して貰います。」

「いいえ、それは結構。俺の所に寝かせますから。」

法正はまっすぐに香織へ向かい、椅子に腰掛けた状態の香織の腕を掴んで立ち上がらせようとした。

「何をおっしゃるのです!天女殿とて未婚の女性ですよ。男性の室に寝かせるなど許されません。」

「天女はこの国にとって重要な方。私が責任を持ってお守りしますのでご心配なく。余計な物事を教えられても困りますからね。」

派閥争いや法正の評判を荊州派の良いように伝えられては、香織がすぐに荊州派へ加担するだろう事は想像に難くなかった。

「法正殿、天女は劉備殿も認められた蜀の賓客。それをくれぐれもお忘れなく。」

「そんな事はお前に言われずとも分かっている、徐庶。」

香織はぼんやりと3人の話を聞いており、何の反応も見せないまま法正に腕を掴まれたままだった。法正は香織が思いのほか酔っている事に舌打ちをすると膝の裏と背に腕を回して横抱きにした。ふわふわと揺れる初めての感覚に怖くなった香織は法正の首に手を回し、深く開かれた襟へ顔を寄せた。黙って縋り付いた香織を一瞥して、法正は憮然としている二人へ勝ち誇った顔を向けると、失礼しますと言葉を残して自室へ歩いていく。



「全く手のかかる。」

法正は泊まり込むことの多い自分の少し広めの部屋へ香織と共に入ると、牀の上に香織を横たえた。少し手荒なそれにすっかり眠ってしまっていたはずの香織は目を覚まして、目の前にある法正の顔に目をぱちくりと瞬かせる。

「私寝ちゃってたんだ…」

「えぇ。」

「もう、いつもごめんね法正…、私が寝ちゃうから法正は床で寝ることになるのに…ほんとにありがとう。」

法正はその言葉に顔をしかめた。法正が酔った香織を見るのは初めてで、法正が香織の代わりに床で寝たこともなければ今夜も床で寝るつもりはない。意味のわからない発言には確かに己の名前が入っていたが、それは違う者への感謝であった。

「そう言えば、俺とよく似た人間と知り合いなのだったな…」

法正が思い出したのは一年前の事だ。初めて村で香織に会った時、確かにそういう話をしていた記憶がある。


「お前の知る法正とはどんな奴でどんな間柄なのか…」

香織の寝顔に問うてみても答えが返ってくるはずもなく。しかしながら悪い関係ではなさそうだと言う事は現時点で確定していた。一年前の村での縋り付くような姿も、先ほどの言葉から分かった頻繁に酒を共にしている事も。おそらく自分にとって不利になる関係ではなさそうだと判断すると、特に利用する予定もないが口角が上がってしまう。


香織は言葉を言い切ると、そのまま深い眠りへと落ちていった。静かに上下する香織の胸元までかけ布をかけ、登城するために着飾ったというのにそのまま寝ては皺だらけになるだろうその衣裳へため息を吐いた。明日は代わりの衣裳を手配しなくてはいけない事になる。月英に頼む事になるのかと思えば二度目のため息が出た。



「失礼しますよ、私は貴方の知っている法正ではないのでね。」

着替えを済ませた法正は一言声をかけ香織の隣へ横たわると目を閉じた。明日、侍女に見られる事になろうとも問題はないのだ。香織が未婚だろうと夫がいようと気にしてやるつもりはなかった。

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