長編 蜀

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8【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】


「法正、どこに行っておったのだ。お前が中々来ぬ故、天女殿を待たせてしまった。」

「あぁ、諸葛亮殿がいらしたので話をしておりました。」

「申し訳ありません。急ぎの用でしたもので。」

徐庶は黙って見守ったが、孔明に指示され劉備の元へ行って先に謁見していたのには理由があった。天女を法正から引き離し、荊州出身の自分達へも関わらせる必要があるからだ。


蜀の内情は意外と複雑だ。成都は益州に位置しているが劉備の軍師を担う孔明達は荊州で学問を学んだ者達。一部からは荊州派とも呼ばれていた。徐庶は派閥に加わったつもりはなかったが、どこの派閥に誰がいるのかは周りが決めて行くものだった。

徐庶は孔明の視線がぼんやりしていた自らに突き刺さったのを知って、慌てて話し始めた。

「ええと、天女様には感謝しています。貴方の助言のおかげで、士元を救う事が出来ました。」

「……しげん?」

「ホウ統殿の事ですよ。徐庶、天女様は人名や地理に詳しく無いようだ。」

香織がボロを出さないよう、すぐさま法正が割行った。諸葛亮の隣を離れた法正は、徐庶と孔明を威圧するかのように香織の横に並ぶ。

「地理や人名に詳しく無くとも助言が出来るとは。」

「ええ、ですから劉備殿、今後天女を神事や出陣式へ参加させる事に許可を頂きたく。」

「もちろんだ。天女殿、法正の元では不自由なく過ごせているのか」

「は、はいっ」

突然の質問に少しばかり大きくなってしまった声を劉備は気にしていなかったが、それでも香織はちらりと法正を仰ぎ見た。特に表情は変わっていなかったがよく考えればこの場にいる5人中3人は軍師。徐庶は裏がなさそうだけれど何を考えているのかわからない点は他の2人と同じだった。なんという猛獣の群れに飛び込んでしまっているのかと、香織は今更ながら背筋が凍る思いがした。

「では殿、御前を失礼します。」

法正が隣でゆるやかに礼を取った。徐庶の拱手と違い嫌味ったらしく見えるのは、本人の性格を知っているからなのか動きが違うのか定かではない。

「おや、わざわざお越し頂いたのですから、皆に紹介してはどうでしょう。如何ですか劉備殿。」

法正の慇懃な礼に気を取られていた香織の更に後ろで、孔明の声がした。やっと帰れると思っていた香織はとっさに顔が引きつってしまったが、その変化に気付いた者は徐庶以外にいなかった。

「良い提案だ孔明!法正、皆にも紹介させて貰うぞ。」

「はぁ…仕方がありませんね。」

仕方が無いというには不愉快な雰囲気を前面に押し出して、まるで納得していないといった法正が恐ろしくて香織は視線を床へ向けた。香織へと嫌味を吐く雰囲気とはまるで異なる張り詰めた空気。ゲームと同じく、どうやら本当に諸葛亮の事が嫌いらしい法正は、髪をかき上げて自らの怒りを落ち着けているらしかった。

「元直、天女様に城内を案内していただけますか。私は法正殿と殿に話がありますので。」

「あぁ、わかったよ。では天女様、こちらへ。」

徐庶の手が示したのは先ほど香織が入ってきた後方の扉。振り向きざまに法正を見上げれば余計なことをするなと言いたげな視線が睨みつけるように降ってきていた。元はと言えば法正が香織を城に連れてきたというのに、まるで香織へと責任を押し付けるかのようなその視線に不愉快指数が上昇した香織は、一瞬だけ睨み返して徐庶と共に部屋を出た。






諸葛亮はその瞬間を見逃すことなく目に留め、ふわりと扇を揺らした。戦況は悪くないらしい。
謁見の間から場所を変え、劉備の執務室へ移動した3人は、劉備を間に挟み静かににらみ合っていた。劉備は部下へ天女の紹介をする旨を伝え人を集めるように指示を出す。その間、法正と諸葛亮は一言も話さなかった。

「二人とも、そのように睨み合うのはやめよ。法正、天女殿を連れてきてくれて感謝しているぞ。」

「えぇ、劉備殿に会わせるために連れてきたのです。お褒め頂くほどではありませんがね。」

「…見返りに何を望むのでしょうね。」

諸葛亮の言葉に視線だけで返した法正は、言っておきますが、と前置きをして話し始めた。

「天女がまがい物だという事はあり得ませんから、余計な詮索は無用です。村の流行り病を解決、ホウ統殿の伏兵を見抜き、劉璋の援軍を伝令より早く口にした。馬岱という無名の将の名前も挙げたほどです。」

ほうほう流石だな、と劉備は心底感心しているらしい。国主への影響力は十分。取巻きへ天女の実力を示すのは、策を練らねばならないだろうと法正は判断した。
諸葛亮ももはや天女の実力を疑ってはいなかった。とはいっても彼のよく知る同門の人物のように信じているわけでもなかったが、疑う必要はないだろうと結論付けていた。
問題は天女がどの人物の支配下に置かれるのか。諸葛亮の下(もと)に置くことが出来れば最善、劉備の下なら妥協も可能、最悪なのは現状である法正の下にいる事だった。
何とかして天女を法正の支配下から取り除かねばならない。ひと月以内には果たさねばならない。そう再認識をして諸葛亮はふわりと扇を仰いだ。





「ええと、困ったな。城内の案内なんてしたことなくて。天女様の好む場所といえば…庭かな」

徐庶の独り言とも会話ともつかない発言にどう返して良いのか分からない香織は、黙って後ろを歩いていた。どこまで続くのかしれない長い廊下にうんざりしてしまう。すると突然徐庶が振り返った。

「ええと、庭に行こうと思います。良いでしょうか」

「うん。」

「天女様、お言葉にお気を付けください」

「はーい。」

徐庶は前を歩きながらくすりと笑った。それは後ろの二人には気付かれないだろう小さな笑み。
天女は侍女と打ち解けているらしい。村にいた頃の村人との関係は分からなかったが、悪い噂が流れてこない事を鑑みれば村人との関係も良好だったのだろう。
しばらく歩いて広い庭に出る寸前、徐庶はしまったと足を止めた。
成都城内は未だ戦禍の後が残り、庭の中に咲いているはずの花も踏み倒され枯れ果てていた。しかも踏み倒したのは戦後の劉備軍によるもので、そのような場所を見せるわけにはいかなかった。

「ええと、申し訳ないのですが別の所に、」

「うっわー。何ここ、せっかくのお庭が台無し!」

「て、天女様、お下がりください!」

徐庶が踵を返そうと後ろを振り向きながら香織の行く手を阻もうとすると、香織は徐庶の横を通り抜けて庭へと歩いて行った。
侍女は初めて見る荒れ果てた庭の風景に口を押えつつ、香織に帰ってくるよう言葉をかける。
その言葉は空しくも荒れた庭へと消えていき、香織は戻るそぶりを見せなかった。

「そうか、まだ成都侵攻からそんなに日がたってないんだよね。私の認識ではすぐに劉備政権になって平和が訪れた気でいたからなー。」

「申し訳ありません。天女様に見せる景色ではありませんでした。」

「んー、平気。それより香織って呼んでよ、私の名前なの。徐庶の事は徐庶って…何度も呼んじゃったけど、良いよね?」

「はぁ」

「あ!あと敬語もなしだからー。」

香織は荒れ果てた庭を眺め、後ろで口を覆ったまま立ち尽くしている侍女へ言葉を駆けながら綺麗な花壇の淵に腰かけさせた。少し離れた場所からその光景を見ていれば、どちらが侍女なのか分からない状態だ。
香織は荒廃した光景を見ても何も思わないらしい。普通、そこそこの出身の女性が見れば卒倒するような風景であった。死体はないにしても、血が花壇の石についている。
まさか、天界とは殺伐とした場所なのかもしれない、などと徐庶は思考を巡らせる。
香織は侍女にそのままそこに座っているように言うと、数歩離れている徐庶の元へと戻ってきた。

「その、香織殿は…」

「え?」

「香織殿は天女、なのだろうか。こんなことを聞いて申し訳ないけれど。」

「んー、その質問は難しいなぁ…。」

香織は法正にどう説明したのかを思い出そうとしたが、法正は香織の正体を問うていないことに気付いてやめた。
そもそも、天女ではないと何度か否定した記憶がある。法正は未だに香織を娼婦か何かだと思っているに違いなかった。正体を明かしていないのだから仕方ないが、早急に改める必要がある。

「なんて説明すれば良いのか分からないんだよね。法正にも言ってないし…天国から舞い降りてきたわけじゃないことは事実、かな」

「でも君は、泥水を真水にし、流行り病を治癒して、伏兵を見抜く力を持っている…」

徐庶は香織をじっと見た。敵ではなさそうだ。こんなに近くで深刻な話をしているというのに全く身構えることなく隙だらけといっても過言ではない棒立ちで庭を眺めている姿は、絹を纏った貴人のそれだった。
体付きも、武を嗜むものではない。市井の女性と同じかそれ以下だ。思えば、肌も白く随分貧弱なようにも思える。

「うーん…神様と会話できるわけじゃないんだよ。たまに先の出来事が分かる…くらいかな。あ、趙雲と馬岱だ。」

香織が言葉を吐いた先には確かに趙雲と馬岱がいた。庭の修復に駆り出されているのか、十数人の兵と共に瓦礫をどこかへ運び出している。
趙雲はどうやら指導者としてそこにいるらしいが、馬岱はどちらかというと作業を行う人員として割り当てられているらしかった。
それもそのはずで、馬超と共に劉備軍へ下った彼は世間からすれば無名の新入りといっても過言ではなかった。

「ねぇ徐庶、馬岱とは仲良くした方が良いよ。うん、きっと気が合うと思う。」

「そうなのかい?俺と馬岱殿が…?」

「うん。馬岱は明るくて軽そうだけど、話すとしっかりしてるし仲良くなれるはず!」

「そんなことまで分かるのか…」

最後の言葉は香織に届いていないようだった。香織は二人の様子をじっと見つめている。
徐庶は香織の正体が気になって仕方なかったが、法正が香織の正体を気にしていない事の方がより気になっていた。
つまりそれは、香織が何者であろうと構わないという意味でもあり、法正が必要としているのは天女でも香織でもなくて天女という権威であることを意味していた。
徐庶は一瞬で結論をはじき出すと、目の前でひらひらと舞う香織の裳の裾へと目を落とした。

「その、君は乱世に巻き込まれて平気…なのかな。」

「巻き込まれる?どういう意味かはわからないけど、私、蜀の天下統一を手伝わなきゃだから。」

「蜀の天下統一を手伝う?」

「そう。蜀に天下を統一してもらいたいの。」

妙にはっきりと言葉にした香織は、庭先をぼんやりと眺めていた先ほどの様子とは異なって見えた。
香織の視線の先では趙雲と馬岱が何者かに呼ばれ庭を後にしている。そろそろ天女を皆に紹介する時間が来たのだなと思った徐庶は、香織に戻るよう促した。


「良いですか香織様、入室なされたら拱手し頭を下げ、御前から許可が出たら、」

「『劉備様に拝謁致します』と言ってから顔を上げる…でしょ?あとは法正が話すことに賛同する…でしょ。」


長い廊下を歩く間、徐庶の後ろでは予行練習が行われていた。もはや徐庶の事は付き人程度に思っているのかもしれないと感じ、諸葛亮や法正のような威厳のなさに溜息を吐いたが、ある意味親しく近しいと感じて貰えていることが徐庶には嬉しくもあった。

「香織様、法正様、ですよ。」

「天女様、じゃないの曉ちゃん。」

「あっ、失礼いたしました」

「もうさー、疲れたよね。早く法正の家に帰りたーい」


香織の呟きが広い廊下の中へ消えていった。

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