長編 蜀

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7【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】

翌朝、何事もなかったかのように曉燕が身の回りの支度を整えてくれた。門前で気を失ったはずの自身がどのようにして牀へ戻ったのかは疑問だったが、道士がなんとかしたのだろうと香織は勝手に納得することにした。今日の衣装は緑の地に白の木蓮が描かれた物で、刺繍もない少し大人しい柄は香織のお気に入りだった。

自室で1人寂しく朝食を取った後知らない侍女が部屋を訪れる瞬間まで香織は普段通りの機嫌だったが、侍女の言葉に香織の表情は一気に変わってしまった。

「法正様がお呼びです。」

もはや嫌な顔を隠すこともなくなった香織は、眉根を寄せたまま曉燕へと視線を合わせたが、本人の意思を尊重する事なく承知いたしましたと告げた曉燕には香織の気持ちを受け入れる気はないらしかった。

「曉ちゃん酷い…」

「仕方がありません。法正様がお呼びなのです。私も共に参りますから。」

食後のお茶を飲み干し、ふてくされたまま香織が向かったのは一度西の建屋を出て左へ曲がった先にある建屋だった。北に位置するそこは西の建屋よりも古く、全体的に暗めの調度品で統一されていた。客をもてなす場所なのか、全く生活感のない空間が広がっている。

「天女様がお着きになりました」

先ほどの女性が立っている所まで長い内廊下を歩いていけば、女性は中へと声をかけた。入れという短い声が聞こえて中へ入れば法正の姿がある。香織は曉燕に導かれるまま椅子へ腰掛け、法正と同じ卓を囲む事となった。

「今後の事、話すんでしょ。」

「えぇ。覚えていていただけましたか。では早速ですが、天女殿には数日の後に登城して頂きたい。」

法正の突然の提案に香織は眉を寄せた。城へ連れていってどうしようというのだろう。相手が何を考えているのか分からない以上、提案に懐疑的になってしまう。香織が政治の話に首を突っ込むのは役不足、ましてや名も知らぬ他人の人生に口を挟むことなどは避けたかった。

「天女殿には我が国に天命を示す役を担って頂く。」

「あのね、勘違いしてるようだけど、私は別に神様と話ができたりしないのよ。」

「そのようなことは望んでいない。現段階の名声で十分、あなたの存在には価値がある。」

「……。」

香織があまり理解していない事に音を控えて舌打ちをし、法正は話を進めた。

「これから数日間で女性らしい所作などを身につけておいてください。そのままでは娼婦と間違えられそうだ。」

「あのさ、嫌味を含めず普通に会話できないの?」

「普通に理解してくださるなら会話も和やかに進むでしょうね」

あくまでも馬鹿にしたような態度に、香織の怒りは沸点へと上り詰めて行く。左慈の話では蜀の天下統一へ尽力することまでは納得できたが、法正の言いなりになる気はさらさらなかった。現在も皆無である。

「私は蜀の天下統一を手伝うつもりだよ。でも、あんたの言うことをなんでも聞くつもりはないから。」

「ほう。つまり、天下統一のためであれば俺の提案を受け入れる…と」

法正の言にいくらかの違和感があったが、蜀の天下統一へ法正が必要なのは事実。おそらくゲームには出てこない部分で法正の助言を聞くことになるのだろうことは明らかだった。

「あんたのためじゃなくて、劉備のためにね。」

「劉備様、」

「……劉備様。」

法正の話は香織にも分かりやすく簡潔だった。劉備の天下統一へ協力すること、そのためのあいさつとして数日後に登城し謁見へ参加すること。今後は神事へ参加すること、戦前に兵の指揮を高めるため兵の前へ出て出陣式へ参加すること…など。気に食わない話ではあったが、法正との関係を良好だと演出することも付け加えられた。政局の境目に道士や天女を偽った物乞いが溢れるのはよくあることらしく、法正の後ろだてを盤石にしておくのは香織の利益になるらしい。香織と法正が繋がりを保てば、香織の意見を反映させたい時に法正の立場を利用できるという。両方にとって有意義な関係だそうだ。香織は政治的な事に疎く、妙に納得させられる話に二つ返事で了承した。



香織は話が終わるとすぐに北の建屋を後にした。礼儀作法に必要なことは曉燕が教えてくれるという。曉燕の指導の甲斐あって5日の間にある程度の所作を覚えると、法正から登城の指示があり、やけにガラガラと音のなる馬車に乗って登場することとなった。







「うわ、広…っていうか扉大きい!」

「天女様、お静かに」

馬車を降りてすぐの香織の発言に慌てて注意をする曉燕は、香織の侍女として共に登城していた。先に登城した法正へ、早速の失態を知られずに済んだと息を吐いた。

「こちらへ。ご案内致します。」

歓迎しているのかいないのかも分からない無表情で迎える女官に同じく無表情で一礼をして、香織は女官の後ろを歩いていく。見事な格天井や文化財のような飾りのついた柱に、気を抜けば口が開いてしまいそうだった。昨日まで何度となく言われた通り、歩いている間は表情を硬くし口を閉じることに気をつけた。貴人は感情を表に出さないものだそうだ。そうこうしているうちに到着したらしい、こちらでお待ちくださいと言われた部屋はとても広く教会の様に天井が高い。奥には見上げるほど高くなった場所と、空席だというのに威厳のある豪華な椅子が鎮座していた。

「入室なされたら供手し頭を下げ、御前から許可が出たら、」

「『劉備様に拝謁致します』と言ってから顔をあげる…でしょ?あとは法正が話す事に賛同する…よね?」

「法正様、です」

曉燕と香織はこそこそと話し、打ち合わせの最終確認をした。謁見という初めての行為に胸は高鳴るが、何度も繰り返した作法に見落としはなかった。イケる、そう確信をした瞬間、階段の遥か手前香織の右脇に存在した小さな両開きの扉が大きな音を立てて開いた。

「おぉ、そなたが天女殿か!話は聞いている。そなたに会いたかったのだ!」

大きな音と続く声に驚いてそちらを振り向いた香織は、劉備の顔をマジマジと見てあぁ見た事のある顔だなどという感想を抱いた。出遅れてしまった供手と合わせ続けられた視線に曉燕は仕方なく頭を下げたまま香織の背中を2度叩いて合図した。香織は正面に向かって頭を下げるべきなのか、歩いてくる方向に向かったまま頭を下げるべきなのか分からず、曉燕を振り返って確認した後正面に向かい直し頭を下げて供手する。

「その様なことは良い。ささ、頭を上げよ、」

劉備様に拝謁致しますの言葉を吐き出す前に、肩を掴まれ無理やり頭を上げさせられれば画面で見たものとそっくりの顔が目の前にあった。

「は、拝謁致します」

「うむ、あぁ徐庶!お前が会いたがっていた天女殿だ!さぁこっちだ!」


徐庶という聞き慣れたはずの言葉に香織が再び小さな扉を見れば、背の高い男が歩いてくる。見覚えのある顔に見覚えのある姿、香織はホッとしたように声をかけた。

「あ…徐庶!」

「お久しぶりです。天女様。」

徐庶は香織の元へ歩み寄り、劉備の隣に並ぶと供手し軽く頭を下げた。香織はふわりと笑ってうん、久しぶり、と答える。曉燕は全く練習通りにいかない貴人の登場や、どさくさに紛れて普段通りの態度になった香織へと深いため息をついたが、誰も気付かない。劉備は徐庶と香織の親しげな様子に満足したように微笑んで香織を見ていたが後ろから登場する二人に気付いて声を上げた。

「おお、法正!こちらだ!」

劉備が香織の背中に声をかければ、香織はびくりとして動かなくなった。礼儀作法を身につけろという法正の声が頭にこだまし、たった今己の振舞った態度を振り返って身震いがした。あぁまずい。後で何を言われるか分かったものではないと振り向きつつ法正を見れば、人好きの良い笑みを浮かべている。法正の隣には扇を持った諸葛亮がおり、何を考えているのかわからない両者の表情に香織はどうすれば良いのかと迷ったが、とにかく法正との仲の良さを示しておかねばと、できる限りの笑顔で法正を迎えた。

「法正様!」

劉備はその香織の嬉しそうな様子にさぞ二人がうまく行っているのだろうと微笑んだが、徐庶と諸葛亮は違った。諸葛亮は作り笑いを瞬時に見抜き、徐庶は法正が香織のような気の強い女子と仲を良くしていることに疑問を抱いた。

「あぁ、天女殿。到着が遅くなりました。」

「はじめまして。」

「お初にお目にかかります。諸葛亮様。」

「おぉ、やはり天女殿だ。孔明、お前のことをすぐに見破ったな!」

「えぇ、そのようですね。」



この香織の謁見は、未だ幕を明けたばかりだった。

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