長編 蜀

□6
1ページ/1ページ

6【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】

帰りたくても帰れないことはこの1年で何と無く分かっていたことだった。帰るための方法など分かり得ない。家を出たら ここ に来ていたのだ。変な光に包まれたわけでも、神様が連れてきたわけでもない。半ば諦めてこの世界に慣れて行こうと、村人と積極的に関わって日々を忙しく過ごした。ここに来て暇を持て余すようになった事が、ホームシックの最大の要因だった。

香織は涙が止まると、袖が化粧で汚れていることに気付いた。高そうな衣裳にシミを作ってしまったと後悔していると、静かに扉が開いて曉燕が入ってくる。寝る準備にしては早すぎるが、顔を洗う桶と手巾が用意されていた。

「香織様、こちらで顔をお拭き下さい。お化粧を全て落としましょうか」

「なんで…なんで泣いてるって分かったの?」

「法正様がおっしゃったのです。暫くしたら、顔を洗う道具を持って行くようにと。」

「そう…」

あんなに冷たい言葉をかけて出て行ったのに、と香織は信じられない気持ちだった。悪党なら悪党らしく知らないふりをすれば良いものを、と素直に喜べなかった。


満月なのか、丸い月を見上げて屋根の付いた庭側の廊下を歩いていると出口の方角に普段は閉まっている垣根の間の扉が開いているのに気付いた。

何故だかそこに行かなければいけない気がして、香織は薄着のまま外に出る。扉を抜ければ中央の庭へと抜ける道になっていた。このまま外に出れば…と、周囲が暗いにも関わらず村へ帰るチャンスだと思った香織は門へと走り出した。判断力が鈍る程、とにかく村へ帰ろうと必死だった。





法正が庭へと出ていると、西の建屋からこそこそと何者かが移動している影が見えた。姿を見れば誰なのかは一目瞭然。月明かりのある今夜に限ってなぜ抜け出そうとするのか、甚だ疑問であった。村に帰る途中で殺されるのが関の山だと呆れつつも、天女の身柄を確保しようと門を目指した。



香織が門を抜けると、そこには老人が立っていた。

「小生が誰か、分かるかね。」

「さ、左慈…さん?」

ゲームで見た顔と同じ顔の人間だからか、すぐに分かった。確か、左慈は蜀に天下を取らせたいと願っている人物だ。

「異界の者よ、そなたを呼んだのは小生だ。」

「え?…なん、何で…」

香織はあまりの展開に言葉をなくした。異界だとか呼んだとか。言ってることは分かるが納得は出来ない。

「ふむ…劉備に天下を取らせるため、じゃな」

「なんで、わた、私…」

「そなたも知っておろう、二人の友人を覚えておるか」

二人の友人。それは仲の良かった法正と徐庶の事だ。

「あの者たちが現世を平和に過ごしているせいで、こちらの世での蜀の天下が危ぶまれている。」

左慈は言った。
あの二人は通常ストーリーの徐庶と法正の生まれ変わりで、法正は志半ばに倒れた失意から前世とは違う人間に、徐庶は魏に降って変わってしまった陰湿な性格を元に戻せずにいる…と。
二人と仲の良い香織を無双世界へ呼び出し、IFルートを開かせたいという。

二人が現代で満足している理由、それはつまり香織がどっちつかずで二人と仲良くしていることにある。

「あやつらのうちどちらかを選択して欲しいのだ」

「どちらかって、そんな急に…それに、ゲームと現実がリンクしてるなんて、言ってることがおかしい…でしょ。」

「うむ、そこからの説明が必要か。」

左慈は感情の見えぬ顔で世界の成り立ちを伝える。左慈が香織に説明したのは物理の大原則。モノが静止している時、それはその物に加わる全ての力の総和が無になるという。
香織が大地に立っていられるのは香織の質量や重力の力と同じ力が逆向きにかかっているからだ。それならば、現実の人間が無双世界の史実とIFを選択出来る力を持っているならば、無双世界が現実世界を動かす力を持っていてもおかしくはない。

二つの繋がりは蜜で、無双世界で生きた者が現世にいても何の問題もなく。現世の者のせいで無双世界のifが開けなくなることもあり得る話であると。

「理解したかな?」

「はぁ…わかった…かな?わかんないかも…」


香織は混乱する頭を2度叩いた。

「現世で選択を出来ないそなたには、こちらの世でIFを開いてもらおう。開き方は知っておるな?」

「…う、うん。」

「ただで、とは言わんよ。苦労をかけるのだから礼もしよう。」

ゲームの世界と現実の世界はリンクしているから、ゲームの世界でIFを開けば香織の現世での運命の相手が分かるという。

「うーん、まだ納得出来ないや。ゲームの世界と現実が繋がってるなんて…」

「そなたが大地に立っている時、下から押されてるように感じないのと同様に、意識出来る問題ではない。」

「一応聞くけど、IFを開くまで帰れない…んだよね?」

「左様。帰す気はない。」

香織がIFを開き運命の相手を見つけなければ帰ることは出来ず、開ければ運命の相手が分かるという二つの情報を頭に刻んだ。

「まだ仕組みは分からないけど…やってみるよ。」

「そなたに頼んだこと、やはり正解だったか。」


左慈は嬉しそうに笑って、香織の前に札を持つ手を差し出した。ふわり、香織に風が当たったかと思うと、瞼が重くなる。 香織はそのまま横に倒れた。


法正が門へ出ると、香織が門の脇で壁に持たれている。慌てて駆け寄る法正は、いつになく慌てていた。

「おい、しっかりしろ」

半身を抱き上げて顔を見れば、香織はすやすやと眠っている。死んだのかもしれないと思った法正は一気に脱力したが、そのまま寝かせるわけにもいかないと溜息を吐き、膝に手を入れて抱き上げると西の建屋へと歩いて行った。顔を洗ったのか、香織の目元に涙の後はなくて安心したが、どうにも逃げ出そうとする天女を留める方策が見当たらなかった。長期的な付き合いになることを考えれば、脅すのはバカのすることだ。何か天女の枷になるものをという考えの先に、浮かび上がるものはなく。


「恩を売り続ける…しかないな。」

法正はあまり気の長くない自分に言い聞かせるように呟いた。
香織が門から抜け出したと聞いた曉燕は一晩中牀の脇で様子を見ていたが、香織は一晩中、深い眠りに落ちていた。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ