長編 蜀

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5【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】

香織が部屋に入るなり3人の女性が布と巻き尺のようなものを持ってきて採寸していった。
明日からの衣装をつくるのだそうだ。そんなもの、今日まで着の身着のままであり、宿泊用のルームウェアで洗濯時を乗り越えて来たのだから不要であった。
一年間近く伸ばしっぱなしの髪はかなり長くなっている。簪を髪に当てられてあぁでもないこうでもないと言われても何のことやら分からなかった。よく喋るアパレル店員に作り笑顔で対応するように、香織はそうですねそう思いますと適当な返事を返した。


その日法正が帰ってくることはなく。ゲームであれば1時間で終わるはずの成都攻略がここではゲームでないことを実感し、香織はいよいよ目の前の出来事に現実味を感じていたのだった。







松明が燃えてパチパチと音を立てている。ラク城は疲れきった兵を休めるのに格好の場所で、陣を張るより戦術的にも有効であった。法正は深夜の城内で苛立っていた。西涼の馬一族は滅亡したとの情報に誤りがあったのだ。曹操の残党狩りが徹底したものだというのは有名な話で。その手を掻い潜ってきた残党の実力たるや凄まじいものであった。錦馬超にいたっては名声も合間って、奴が戦場に存在するだけで兵の統率に影響が出る。ぎりぎりと、手袋をはめた拳を握った。

「おや、お戻りだったのですか。」

「これはこれは諸葛亮殿。」

足音が聞こえていたのに大仰に驚いて振り向いた法正は、不機嫌を顔の下に隠した。

「昼間はどちらに行かれていたのですか。」

「昼は所用がありまして。国を治めるのは大変なことです。あなたも、成都侵攻が成功した暁にはお分かりになるでしょうね。」

法正は探られまいと一線を画した。しかし諸葛亮はその線を飛び越えるような発言をする。

「天女も、あなたの居所にいれば安心でしょう。村で過ごすのはあまりにも…危険です。」

「…諸葛亮殿も天女などの存在を信じていらっしゃるとは、徐庶の影響ですか。」

「いいえ、私はもともと占いの類を信頼しています。妻の月英は易を行う事が出来ますし。それで、天女はなんと。」

天女は勝利を予言しました、という法正の言葉に、諸葛亮はふわりと扇を動かしただけであった。表情からは何も伺えない。故にこちらも明かさなかった。本当の発言は、負けたら承知しない…なのだが、それでは法正と天女の不仲を知らせることにもなる。

「明日は報復といきましょう。二手に分かれて挟撃にしますか。」

「えぇ。それが良いかと。法正殿もいらっしゃれば、明日は負けることはないでしょう。」

「ふん、天女の意向ではなく俺の存在を重視しているあたり、あなたもやはり信頼していないようだ。」

法正は諸葛亮から天女への興味を薄れさせることにした。こちらから仕掛けるまでは天女の話題をなるべく出さないでおく必要がある。一部、天女の予言を信じ始めた奴がいたが、あいつを黙らせるのは簡単だろうと切って捨てた。
法正の頭の中はもはや成都を取った後にしか興味がなかった。


天女の予言通りと言うべきか、諸葛亮の献策の賜物なのか、成都侵攻は成功を治めた。劉備が国主となり蜀を治める。これからは法正の発言力も増すだろうと思えば、政権への期待感は中々の物であった。法正は元来他人を信頼することはないが、劉備には惹かれるものがある。それが仁というものかと思うも、自分の中で納得したくないという気持ちが過半数を占めており、仁の文字を頭から追い出した。

「孔明、またしても天女の言った通りになったんだな。」

「ええ、元直の聞いた伏兵の件といい、天女の力には驚かされますね。」

諸葛亮が法正へ視線を合わせながら徐庶と話している。法正はこれ以上天女の話題を周りに広められては困ると徐庶を睨みつけた。不穏な空気を感じて口を閉じる徐庶へ、諸葛亮はため息を吐いた。

早めに手を打たねばならない…そう法正は思った。あの天女とは名ばかりな跳ね返り女を手名付け、法正の手元に置いておかなければならない。荊州派はもちろん他勢力にも渡すわけにはいかなかった。軍略には天意や大義が大きな影響を及ぼす。現実主義の法正だからこそ、その影響力をよく分かっていた。





香織はのんびりと庭先で茶を飲んでいた。持って来られる菓子はどれも美味しく、残すのが勿体無いが体型を配慮して残しますと詫びると、侍女の曉燕(シャオエン)はくすりと笑ってお気になさらずと言った。

「ねぇ曉ちゃん、法正っていつ帰って来るんだろう。遅くない?」

「申し訳ありませんが、私に法正様のご予定は分かりかねます…香織様は法正様をご心配なさってるのですね。」

「心配はしてないよ。ただ、早く村に帰りたいから…ね」

「香織様…私共のお仕えがお気に召されませんか。」

曉燕は悲しそうな顔をした。曉燕は、香織がここを嫌うのは居心地の悪さ故だと思ったらしい。法正の居所は成都でもかなりの広さを誇る邸宅である。西の建屋は増築したばかりの新築で、使用人内の噂では法正が妻を迎える準備だとも言われていた。一向に噂の奥方が来ないことを不思議に思ってはいたが、そんな時に香織が連れて来られたのだ。到着するなり走って逃げた事に驚きはしたが、その後の態度はこちらが恐縮してしまうほど丁寧なもの。法正の言いつけ通り、絹の衣を纏って銀の簪を使い飾り立てている。珍しい茶を飲み髪飾りをふわりと揺らして時間を潰している姿は貴人そのものだった。曉燕が思うに、女性ならば一度は夢見る暮らしぶりだ。曉燕も使用人の期間を終えて嫁入りする時はこんな家が良いと、分不相応にも思ってしまうほどには。それらを捨ててでも村に帰りたいとは、使用人の自分が気に食わないのかもしれないと思うには十分な状況で。

「いや、そんなことないよ!親切にしてくれるし、一緒にお菓子を食べられないのは仕事だからでしょ?」

「はい、香織様の優しいお気遣いには感謝しております。どうかこのままこちらにいてください…お願いします。」

「うーん…困ったな、法正早く帰って来てよ…あーもう、遅いなぁ!」

「天女に待ち焦がれられるとは、身に余る光栄ですね。」

香織の発言に呼応するように、法正が開かれた扉の前で応えた。曉燕はさっと供手して香織の後ろに控えた。

「遅い!焦がれてない!」

「おや、寂しいものですね。俺はあなたにお会いするのを楽しみにしていたというのに。」

「気持ち悪い。いったい何考えてるのよ」

じろりと香織の視線が法正を捉える。法正は気にもしていないようで、まっすぐにそれを受け止めた。

「下がれ」

「失礼致します」

頭を下げたまま部屋を後にする曉燕は数日間一緒にいた間に一度も見なかったほどの緊張した顔をしていた。香織は法正が使用人に恐れられているのをうすうす感じてはいたが、表情を見てそれは確信に変わった。

「何か用?劉備軍はもちろん勝ったんでしょ。馬超と馬岱は仲間になった?」

「そんな事まで知っているのか。馬岱という奴は無名な部下のはずだが。」

法正は眉根を寄せて思考を巡らせた。やはり、この女の首根っこを掴む必要がある。

「ここでの暮らしはお気に召されましたか」

「お気に召しているとお思いですか」

「そうですね、銀の髪飾りも絹の衣裳もとてもお似合いだ」

「法正が言うと嫌味にしか聞こえない」

顔を背けてつんとした顔をした香織に、法正はやれやれとため息を吐いた。女を手名付けるには良い暮らしが1番だろうと思い、出来る限り恩を売ったつもりだった。法正にはさっぱり興味の湧かない衣装や髪飾りも取り寄せたし、口うるさい老いた上司に言われて改築した西棟は来る当てもない正妻を迎えるための豪華な建屋で。それでもまだ足りないと言われては何をすれば良いのか検討もつかない。

「村に帰りたい…。っ本当は家に帰りたいんだけど。」

ぼそりと呟いた発言に注視して香織の顔を見ると、泣き出そうとしているようだった。涙を流す女に付き合うなど面倒だと思った法正は退出の言葉を吐くために口を開いたが、香織が先に制した。

「ごめん、出て行って。暫く一人になりたい。」

「……良いでしょう。今後のことは明日、話をさせてもらうからな。」

法正も負けじと伝えるべきことを伝えて退出して行く。
香織の瞳からはとめどなく涙が溢れて、声を殺して泣いた。法正はさしたる興味もなさそうに西の建屋の廊下を歩いて行く。

建屋の出入り口では侍女が待っていた。自分と入れ違いに香織の元へと行くつもりだと分かった法正はよくもまぁ短期間でここまで懐かせたものだと心の中で皮肉った。天女を手名付けるのに手間取っている自分と違い、天女はいとも簡単に侍女を手名付けていると思えば、悔しくもあった。

そういえば、と、香織が一人になりたいと言った事を思い出して侍女に声をかけた。

「天女は暫く一人になりたいそうだ。」

「承知いたしました。」

「あぁそれから、顔を洗う道具を準備して下さい、涙で化粧が落ちるはずです。」


それは何気ない一言だった。


法正は、居室のある東の棟へ向かうため中庭を歩いていた。月を見上げ、天女に恩を売るための次の手を考える。
既に大きな恩を売ったことを、法正はまるで気付いていなかった。

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