長編 蜀

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4【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】

それは成都侵攻開始直後の話であった。


徐庶は諸葛亮の隣へ並び、法正から渡された成都の城内外の地図を見ていた。
作戦はすでに決まっている。
先方部隊が南から攻め上げて行き、中盤に差し掛かった所で諸葛亮が投石車を用いて砦を壊し、総力でもって城を攻めるのだ。
恐らく、内部にて法正からの増援が来ることも期待していたが、劉備軍だけでも万全の体制は取れていた。

「どうしました、元直。まだ劉備殿の気持ちを考えているのですか」

「孔明、今はもう…それはいいんだ。気になることは他にあって…先日、俺が麓(ふもと)の村に降りた事を知っているかい?」

「ええ。天女のいる村、ですね。」

そこで聞いた話を徐庶は信じていなかった。天女の言葉だとしても、あまりにも細かすぎる発言だ。大抵、天女や道士というのは大事を示すことはあっても、小事に口を出す事はない。

「なるほど、どこで士元に伏兵が来るのか、どういった戦法なのかは告げられなかったのですね。」

「ああ、俺がもっと詳しく聞いておけば…。」

徐庶は後悔を滲ませた。孔明は天女の発言に半信半疑で居ながらも、伏兵のありそうな場所を地図の中から探して行く。

「この中で伏兵に適した場所はこの蛇行した東の一部…でしょうか。木々に紛れて矢を放つか、高低差を利用して岩を落とす事が考えられそうです。」

「孔明…やはり君は凄いな。」

「いいえ元直、実際に伏兵を見つけるのはあなたに任せますよ。私は投石車の準備を急がねばなりません」

「あぁ、任せてくれ。」

半信半疑で話した2人は、それでも万全の策を作り上げるためにと伏兵がある前提で話を進めた。劉備殿の天下を取るためには、ここでホウ統を失うことは避けなければいけなかった。






「まさか…。いや、本当にこんなことが…」

徐庶は東部で怪しげな梯子を上った直後、眼前の伏兵に驚く他なかった。
1人でも相手にできる数だ。驚いたのは敵の数にではない。この高台であれば、ホウ統の部隊が通る道を狙い撃つに最も適しており、天女の言葉が事実で有る事が明らかになったのだった。

占星術を使って吉凶を読み取ることは軍師であれば一度は見聞きすることだ。徐庶も例外ではなく、易の結果を参考に戦法を考えることもあった。しかしながら「伏兵で鳳雛を失うな」とはなんとも細やかな指摘だろう。


中央から狼煙が3本上がり、ラク城急襲の成功が伝えられた。思ったより早い展開だが、きっと法正が加勢したに違いなかった。これで孔明も投石車の運搬に専念できるだろうと思った徐庶は、成都城の攻略のため、ラク城へと歩みを進めることにした。予定通りに今日はラク城へ留まり、明朝、行軍を再開する事になる。

「お前さんには驚かされるね。」

「伏兵とは、相変わらず張任も姑息なことをする。それにしても徐庶、伏兵に気付くとは流石だな」

法正から褒められても素直に喜べないのは、たった数回会っただけでさえ分かる彼の性分のせいだ。報恩と報復。それが法正の行動原理であった。

「いえ、俺はただ…鳳雛を伏兵で失うなという天女の言葉を信じてみただけです。」

「天女…?」

「いや、ええと…馬鹿らしいと思われますよね。」

法正の前でなお一層萎縮した態度を取る徐庶を一瞥すると、法正はだいぶ昔の記憶から天女を思い出していた。たしかその女は麓の村の流行病を治したという噂の女だった。

「徐庶、その女とはいつ会った。」

「ほんの数日前です。天女の噂を聞いて、会いに行ってみたくて。」

「つまらぬ噂話に耳を貸したばかりか、怪しい女の言を信じるとは…実にお前らしいことだな。」

徐庶を小馬鹿にしつつ、法正の中では情報がまとめられていく。
天女の言が当たるか否かは別にして、その天女を早めに確保しておく事で今後予想される劉備政権内での派閥争いで重要になるだろうと踏んだ法正は、すぐに村へと降りて行った。入蜀は法正不在のままでも成功することは間違いない。劉備軍には諸葛亮がいる。気に入らないが実力は確かである奴のおかげで安心して先手を打つことができると、法正は一人笑みを浮かべた。

今は日没前。麓の村人も流石に寝付いてはいない時間だ。






香織が夕食前に村人数人と水撒き用のジョウロを作っていると、馬が駆け出くる音がした。
香織と村人がいるのは中央の火を焚いている広場だ。何かをする時は必ずここに集まって取り掛かることは、防犯上の決まりとなっていた。

皆一様に背筋を伸ばして馬のやってくる方角を見れば、見たことのある服装と顔の男だった。

「げ、法正…!」

「天女様、どうなさいますか?」

「私、家に戻る!」

1人おかしな格好をした者が広場から抜けるのは馬上から良く見えた。
法正はほくそ笑むと馬の足を緩めながらも、広場を騎乗したまま駆け抜け、香織の逃げた方角へ向かう。
以前来た時とは違い、道は平らに鳴らされて脇には花が植えられていた。

「天女殿、出て来てください。」

香織が家の中で膝を抱えて荷物を抱きしめていると、外から聞き覚えのある声がした。聞き覚えはあるけれど、他人の声だ。よく分かっているはずなのに、同じ声なだけで安堵してしまう自分に罰を与える意味で頬を抓った。

「っ…!!」

痛みを抑えるようにして目をつむり、法正が去るのをじっと待つ。暫く振りに目を開いたが、何処かへ行ったのか、辺りは静かなままだった。香織が家の外を覗くと、目の前に見たくも無い姿が見え、あまつさえ視線が合ってしまった。一目散に家の中へ駆け込む。

「あぁ、やはりここでしたか。」

「なんで分かったのよ!なんで徐庶じゃなくてあんたが来るの!」

「おや、天女殿は徐庶がお気に入りですか。」

ちょっと受け取られ方が違った気がする。否定しようと体を向かい合わせると、腕を掴まれてしまった。

「おまえ…馬鹿だな」

「うるさいっ!離してよ、誰かー!」

「っ!静かにしろ。…あなたを手に入れるために、村を全て焼いてしまっても良いんですよ。」

法正が脅しの言葉をかけると、ようやく事態を把握した香織は押し黙った。代わりに外が騒がしくなったが、黙って一緒に来いと一言告げられれば仕方なく荷物もまとめて家を出る。
家の前には人垣が出来ていたが、香織が一言出かけてきますと言えば周りの者は見送るしかなかった。


馬の駆ける速度は車ほど早く無いが、上下の揺れが激しすぎた。文句を言おうにも舌を噛みそうで、ただただ法正へしがみつくしか無い香織は法正の前に横乗りにさせられている。
もうどのくらいかけたのか、1度山を登った気もする。開けた土地には香織のいた村よりもっと開拓された場所が広がっていた。とはいっても正直なところ、村と大して変わらない文明加減だった。それなのに都会だと思ってしまう辺り、香織はこの場所に慣れたものだと思った。

「おい、降りろ」

「……わっ、」

ゆっくりゆっくり。鞍に捕まりながら足元を確認するようにおりていると、香織の手を引いて無理やり降ろされた。着地した地点は土の上と法正の腕の中だ。

「ちょっ、やめてよ!ゆっくりだったら自分で降りられたのに!」

「手伝ってやったのにその言い草か。」

「手伝ってなんて言ってない!」

抗議を華麗にスルーされ、邸宅と呼ぶに相応しい家へ半ば引きずられるように入れられた。
大きな門、それ抜ければ広い庭と、庭を囲むように建物が立っていた。
建物はそれぞれ平屋創りになっているが、その分奥行きがありそうだ。

「天女様は西の建屋にある部屋を使ってください。必要な物は今から揃えさせます。」

「は…?」

「あぁ、あなたには天女として暫くここに住んで貰うのでそのおつもりで。」

法正は言いたい事だけ言うと自分の部屋があるのだろう別の建屋へ入って行った。

「天女様、此方です。」

「あの、私には香織という名前があるので香織と読んでください」

「は…。」

侍女、なのだろうか香織には分からなかったが、香織の前を歩く女性はまだ幼くそんなに足も早そうじゃない。逃げるなら今だと、彼女が運んでいた荷物を掴み取ると走ってもと来た道を戻った。無事に門を出られれば大きな街に出る。天女のいる村への道は、誰かしらに尋ねれば知っていることだろう。

広い中庭に面した出口まで建屋の中を走りぬけると、門を目指して一目散に駆け抜けた。走るには不便な土の道にもいくらか慣れており、香織は中々の速さで走れていることが嬉しかった。

だいぶ離れた背後から先ほどの女性の声が上がる。今頃かと思う反面、自分の判断力に中々の評価を下した。

「待て。」

門を抜けてやり切ったと思った瞬間、忌々しい声がすぐ右側から聞こえてきた。

「なんでこんな所にいるのよ!」

「逃げる事が分かっていたから、でしょうね。」

「逃げたがってるのが分かってて閉じ込めようとしたのかあんたは!」

はぁはぁと息が上がっている。あの女性ならば逃げられそうだったが、法正の足には勝てそうにもなかった。例え軍師だとしても、彼は立派な無双武将だ。

「最悪…天女を不愉快な目に合わせて、天罰が下るわよ。」

「ほう、そんな事が出来るのか、せいぜい報復したくなるほどのものを用意してくださいね。恨みを溜めるのは意外と手間なので。」

天女だと言われていても、確実に天女だと思われていないことが分かった。バカにしたような言い方は、娼婦だと言った時の態度と変わらない。
香織は法正の鼻を明かしてやろうと、記憶を手繰り寄せ誰も知り得ないだろう情報を口にした。

「早く援軍に行かなくて良いの?劉璋は援軍として西涼の錦馬超を引き入れるわよ?」

「ご冗談を。西涼の馬一族なら曹操に滅亡させられましたよ」

「法正様!大変です!」

2人の間を割り込むように武装した兵士が駆け寄ってきた。近くで膝を折り頭を下げる。その慌ただしさに不機嫌になった法正は、何だと一言声をかけた。

「劉備軍が押され初めました!錦馬超を初めとした数名が援軍に加わった模様!」

「何だと、投石車はどうした。諸葛亮は、」

「投石車で門を開けた先に錦馬超一派がいるのよ。ほら、早く行って加勢してきなさい。」

形勢逆転、香織は法正へ嘲るような視線を送った。軍師だろうとなんだろうと怖いもの無しだ。香織はプレイ動画で予習した知識がある。法正は今まで見せなかった不愉快極まりないといった表情で香織を睨みつけていた。

「…そうだ!ホウ統殿はどうなったの!?伏兵は防げた!?」

香織はすっかり忘れていた徐庶の事を思い出して法正に詰め寄った。法正は急に様子の変わった香織を訝しみながらも、ホウ統殿は無事だと事実を告げる。ホッとした香織は心から喜んでいるような笑顔を一瞬だけ見せた。

「ほら、早く行ってきなさいよ!仕方ないからここにいてあげるわ。暫くだからね。」

「急に態度を変えるとは。返って怪しい。」

「良いから早く行って。負けたら承知しないわよ。」

香織が自ら西の建屋へ足を向けて行ったのを見届けて、法正は門前に繋いだままの馬に飛び乗った。あの女は只者じゃないという事だけでも良い収穫だ。この上大人しく邸で待つようであれば全て自分の思い通りになると笑みを浮かべた。

「負けたら承知しない…ということはこの戦、天女の見立てでは勝利する、ということか。」

法正は人の悪い笑みを浮かべた。
香織はこの男が悪党と言われる所以をあまりにも知らなかった。

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