長編 蜀

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3【仮想変位F359を仮想世界から訂正する】


「法正!」

急に正面から縋り付いて己の名前を叫んだ女に、法正は心当たりがなかった。

「あ、あの、法正様…?」

従者もあまりの様子に戸惑っている。もしかしたら知り合いの女性かもしれず、無闇に引き離す事も出来なかった。

「知らん。離せ。」

端的な答えに弾かれるように動いたのは従者だけではない。
香織も、聞き慣れた声音が発した言葉に目を見開き手を離した。
法正のきっちりと着込まれた漢服がはだけてしまっている。

「法正…じゃないの?」

「その名は私のものですが。生憎私たちは知り合いではなさそうです。…こちらで天女と噂になっている女性は貴方ですか?」

「て、天女?」

この者で間違いないようですと、今度は別の従者が反応した。
あまり歓迎されてはいないらしく、両腕を二人に抑え込まれつつ、村の外へ連れ出される。

「感冒の流行を止めたとお聞きしました。どうやったのか、話を伺っても?」

立ったままで淡々と業務的に話を進めていく法正は、これ以上の関わりを拒否しているに違いなかった。話しにくいからと両脇の人を下がらせてもらい、水を清めた方法、手を洗うようにした事を説明し、ついでに天女というのは否定しておいたが、どうにも見下されたままなのは悔しい。

「ねぇ法正、」

何度目か、呼び捨てて問いかけるたびに睨まれるけれど、今から敬称を付けるのには違和感があった。


「お前、いったい何者だ」

「何…って説明出来る事ではないけど。私の知ってる法正って男があなたとそっくりだったの。あなたより優しくて親切な人だけど。」

香織の言葉に耳を傾けつつも、法正は冷静に場の雰囲気を読んでいた。
おそらくは物乞いか娼婦が、何処かで知った間諜の真似事でもしているに過ぎないだろうと断じた。

「なるほど。要求は金か。物乞いか娼婦にしては頭を回した方だ。くれてやろう。」

「お、お金?」

投げるように足元に落とされたものは銀に光る大きな塊二つ。

「お前のようなものは、これだけあれば数年は暮らせる。満足だろう?」

蔑んだような視線に、香織は不満を隠す事もなく睨みつけた。
香織の知っている法正とはあまりに異なる様子。香織は物乞いではなかったが、現状を考えれば貰える物は貰いたいというのも本音だった。

「なんか…ほんと人違いだったみたい。法正だと思ってたけど、法正は貴方みたいに最低じゃない。」

香織は銀を拾い上げると、拒絶するかのように村へ戻っていった。


法正は香織の後ろ姿を見ながら、変わった知識は薬師から仕入れたのだろうと判断した。衣服や態度に違和感はあるが、変わり者は何処にでもいるものだ。話を聞く限り、そこまで突飛な事をしたわけではない。念のために足を運んではみたが噂話というのはやはり当てにならない物だった。





それから1年も経たないうちに、香織の元へ二人目の来訪者が現れた。
香織はその1年弱を必死に過ごしていた。帰る方法など見つけようもなかったし、隣の村まで行くのに徒歩以外の手段はなく半日かかるほど情報や人の交流がない村では生きるのに必死であった。
村に馴染むのは意外と簡単で。流行病での活躍と、法正のお金で食料や種を買ってわけ与えればすんなりと受け入れられた。






長い裾の軍袍を纏う長身の男が水を濾過する香織の背後に立っている事を村人が教えてくれた。
教えられるまで振り向かなかっただろう影の薄さと静かな足取り。
しかしながら振り向いた香織はいつかの如く相手の名前を叫ぶこととなった。

「徐庶!」

振り向くなり名前を言い当て縋り付いた女性に、徐庶は石のように固まってしまう。
入蜀計画の最中、陣内の噂話で天女のいる村があると聞いてやって来てみたが、噂の天女とは少し違う女性のようだった。

大層美しく気品に溢れ、知識豊かで素晴らしい女性だ…と徐庶は聞いたのだ。目の前の女性の容姿は十人並みであったし、男に抱き付くのはお世辞にも気品に溢れた行為とは言えなかった。
確かに村の民はこの女性が天女だと言い、徐庶自身も着ているものや発言のおかしさに違和感を覚える。

「ええと、どうして俺が徐庶だと分かったのかな…」

「え、も、もしかして、徐庶じゃ、ない…の?」

香織は力を抜いて抱き付いていた両腕を離し、徐庶と距離をとった。

「いいや、俺は徐元直だ。君の言う徐庶は俺の名前だけれど、俺は君の事を知らなくて…その、」

「ご、ごめん!人違いだったかも!法正の時もそうだったんだよねごめん気にしないで!」

「法正、殿?」

法正という言葉を聞いて、徐庶の纏う空気が変わった。刺々しいそれは香織に伝わるのも十分なほどで。法正は蜀の地へ劉備一行を引き入れてくれる大事な人物だった。その要人の名を劉備傘下の徐庶の前で口にするとは、裏があるに違いない。一方の香織は怯えたような視線で雰囲気の変わった徐庶を見た。

「法正殿の事、どうして知っているんだい?」

「い、1年くらい前にここへ来たからだよ。っていうか徐庶のその服、何処かで見たことあるかも…ん?」


香織は、時が止まったかのように動きを止めた。目の瞬きに至るまで、まるで石膏で固められたかのようだ。香織の頭の中に懐かしの我が家が思い出される。携帯端末で遊ぶゲーム。大好きな友人とよく似たキャラクター。今目の前にいる男はそのゲームの中で香織が見た通りの風貌だった。法正の時はゲームとは異なる漢服のせいで気付かなかったらしい。

「徐庶…だけど徐庶じゃない。ってことはここってゲームの中?まさか
、嘘でしょ…。」

「ええと、あの、天女殿?」

「え…何?」

徐庶は遠慮がちに香織に話しかける。急に挙動不審になった天女を相手に詰問できる性格ではなかった。

確かに香織の知っている徐庶と目の前の徐庶は違う人物だ。
香織の友人は暗くて刺々しくて、何を考えているのか分からない危うさのある人物。一方、ゲームの中の徐庶は遠慮がちで引っ込み思案でマイナス思考で自信がなくて…。

「だ、大丈夫かい?」

「え、あぁ、うん…。」

香織は必死にゲームの内容を思い出していた。もう1年前の事なので、朧げな記憶を必死にかき集める。
徐庶が益州にいて緑色の軍袍を着ているということは、時期的には赤壁以降。そして蜀のIFルートなのは間違いない。さらには、中々プレイ動画のようにいかなかったIFルートの条件があったはずだ。

「徐、っ…徐庶!」

「な、なんだい。」

「…天女の言葉として聞いて欲しいんだけど、良いかな。」

恐る恐る口を開く香織の言葉に、徐庶は条件反射で頷いた。

「成都を攻める時……、信じる信じないは徐庶の勝手だけど、伏兵で鳳雛を失わないで」

「何を言ってるんだ…君はいったい、」

「天女の言葉として聞いて。」

再び細められ始めた徐庶の目を覆うように言葉を被せた。
香織自身が益州にいるということは蜀の命運に巻き込まれるということだ。せっかくIFルートへの道が開かれているのだからと、香織は徐庶へIFルートの条件を伝えた。

「胸に留めておくよ…」

徐庶が背を向けて帰った後も、香織は暫く立ち尽くしていた。
1年間、全く考えていなかった展開が目の前で起こっている現実が受け入れられなかった。




香織は季節の変わらないうちに、劉備が少し離れた地で兵を上げたという話を聞くことになる。

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