長編 蜀

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香織がドアを開けて家を出た先、足元でかさりと土を踏む音がした。
視界は良好。晴れ渡る青空。

おかしい。香織の住んでいる単身向けマンションのドアの向かいは、隣のマンションの壁があるはずだ。
おまけにマンションの廊下は断じて土ではない。

「はぁ?」

香織は一人景色に不満を漏らして後ろを振り向いた。
当然後ろには閉まりかけのドアがあるはずで。

「ドア…ない。っていうか家もない!」

先ほどまで自分が暮らしていた家が忽然と姿を消していた。
驚く他ない状況に、香織は目を開いたまま立ちすくむ。
視界に写るのは土で出来た道。
道といっても一車線程度の広さで、両脇には足首程度の高さの草が生えている。
見渡しの良い道路である。

「あれ何…牛車?…ロバ?」

ロバに何かを載せる台車が繋がれており、老人が台車の上にちょこんと乗ってこちらへ向かってくる。
先ほどまで認識していなかったのは、あまりの出来事に唖然としていたからだろう。

「す、すいませーん!ここどこですか!」

「ここは成都城の南じゃよ。お前さん変わった身なりをしておるのぉ。」

老人はのんびりとした具合で受け答えしてくれた。
ロバに支持を出している風ではないのに、ロバは香織の前で止まっている。

「せいと?せいとって何ですか?」

「益州は分かるかい?劉璋様の治める土地じゃ。」

「いや分かんない…」

せいと、えきしゅう、りゅうしょう。
身に覚えのない単語がどんどん出てくる。

「どうしたもんかの。頭でも痛めたか…」

「はぁ。どうしよう…あの、何処か町とかないですか?この辺のこと分かる場所とか」

「今から村に行くからの、乗せて行ってやろう。」

村という単語にいくらか疑問を覚えたが、香織は老人に任せることにした。老人は農作物の販売に村へ行くという。乗せてもらった荷台は、ニラのようなものやサツマイモのようなもので埋め尽くされていた。
老人はちょうど話し相手が見つかったと、昨今の出来事をペラペラと話出す。老いての一人暮らしは寂しいらしかった。

「待っておじさん!今なんて言ったの、せきへき?」

「そうじゃ。赤壁で曹魏と孫呉、それから劉備という御人が戦ったのじゃよ。もう2年前になるかの。なんじゃ、益州は知らぬのに赤壁は知っとるのか。」

せきへき、せいと、えきしゅう、りゅうしょう。
香織の頭の中で次々と変換されて行く文字。
赤壁、成都、益州、劉璋。
それだけの文字があればここがどこなのかは分かった。何処なのかだけでなくいつなのかも。

「おじさん、私ちょっと混乱してるかも…」

「ははは!村に着いたら混乱も治るじゃろう。知り合ったのも何かの縁。粥を食べさせてやる。」

老人の笑い声が遠くで聞こえる。
香織は再び眼前の景色を眺めた。
何処までも続く広い土地の先には山々が広がっている。
高層マンションどころか二階建ての建物さえ見当たらない。
香織は荷台の端、後ろ向きに座ったままぼんやりと法正と徐庶の事を思い出した。
だいぶ時間が過ぎてしまった。約束してた食事には行けそうもない。


「何か様子がおかしいのぉ」


どのくらいほおけていたのか、老人の声に貼っとして前方へ体を捻れば、
村が見えてきた。香織には何がおかしいのかさっぱり分からない。
ただの寂れた村があるだけだった。
しかしながら、村の中に入るとおかしい理由が分かってくる。

「うわっ、何ここ…なんで人の死体ばっかり…」

香織は言葉にした事を後悔した。
小さな子供の遺体の脇では母親だろうか、大人の女性が縋るように泣いている。
幸いなことに香織の声は届いてないらしかった。

子供の死体だけでなく、道の脇をまるで街路樹のように点々と死体が横たわっていた。中にはピクピクと動くものもある。どうして誰も看病していないのか、謎であった。


「…はやり病じゃな。」

老人はそう口に出すとロバの向きを変えて先ほど入ってきた場所へ向かい出す。

「おじさん?なんで帰るの?」

「はやり病にかかっては叶わん。仕方が無いが、今日の商いは終わりじゃ。」

さも当然なことのようにそう言った老人へ、香織は信じられず言葉を失った。人の良さそうな老人が他人を見捨てようとしている。

「ご!ごめんおじさん。私ここに残るね。送ってくれてありがとう」

「こんなところにいたらあんたも死んでしまうよ!」

荷台から飛び降りた香織へ老人が声をかけたが、その馬車が止まることはなかった。


「すみませーん。誰か、元気な人いませんかー?すみませーん!」


香織は瓦礫か建物か分からないから建築物の間を歩き、声を出して歩いた。すると、おそらく十代だろう青年がフラフラと歩いてくる。

「あの、私は村の外から来た者ですが、泊めて貰える所知りませんか。」

出来るだけにこやかに訪ねたつもりだったが、青年には怪訝な顔をされてしまった。

「こんな所に泊まるなんて、あんた死に場所でも探してるのか?それならその辺の空いてる家を使いなよ。持ち主はもういないんだから。」

青年が指差したのは香織の立っている場所のすぐ右、納屋のような建物だった。
香織がありがとうと言葉をかけて納屋の中に入ると、原始人の生活道具のようなものが壁際に立てかけてある。
木で出来た汚い桶が数個、元はタオルだったのか、よく分からない古びた布など。
納屋の中は流石に締め切られていたからか、空気が淀んでいる。
おまけに窓もなく薄暗いため扉を閉めれば真っ暗だった。
幸いなことにもうひとつ外へ続く扉があったため、2箇所とも開け放ち空気を入れ替える。

「なんなんだろ一体…」

村の何処かに水くらいはあるだろうとうろうろしていたら、村人から注目されていることに気付いた。
しかしながら、香織が顔を向けると視線を逸らされる。
ようやく先ほどの青年を見つけたので、走り寄って行くと足元で中年女性が倒れていた。

「あの、どうしたの…」

「母ちゃん。俺の母ちゃんだ。」

倒れている女性はまだ死んでいないらしい。ぼろぼろの衣服に纏われた胸が呼吸とともに上下していた。
香織は屈んで女性のおでこに手を当てる。すると、思った以上に熱が高かった。

「ねぇ、熱があるのになんで冷やしてないの?」

「もうダメだ…みんな死んでった。吐いたり下したり、血が出るまで咳をしたり熱が冷めなかったり。母ちゃんは熱だな…このまま死ぬ。」

青年はまるで決まり切った出来事のように母の死を断言する。
香織は信じられない物を見るように青年の顔を見上げた。

「ちょっと待って、もっと詳しく教えて!普通に風邪じゃないの?」

「かぜ?感冒だよ。あっという間に村に広がってしまったんだ。」

感冒が広がって一月になるという。
確かに乾燥した空気、綺麗とは言えない衛生環境。ばい菌は広がりやすそうだ。
感冒は風邪の事だと本で読んだことがある。風邪ならば、死を諦めるのは幾らか尚早だと香織は苛立った。

「あーもう!ほらお母さんを家に連れて行きなさい!……早くする!」

年上の特権とばかりに突然怒鳴り散らした香織へ怯えるようにして、青年は家の中へ母を抱き上げて入った。
香織がついて行き飲み水を持ってくるように言うと、桶に入った水と割れかけた土器を持ってきた。
その水の濁り具合に香織は唖然とする。

「待って!なんで飲み水が濁ってるのよ…。」

「大雨で川が濁ってて、澄んだ水は手に入らないんだ。ここは毎年そうだよ。今年はいつもより長いけど。」

「煮沸…は泥だから無理よね。せめて蒸留とか出来ないの?」

次に黙ったのは青年だ。
蒸留という聞きなれない単語に困惑しているらしかった。
なるべく綺麗な鍋と桶を手にし、香織は唯一火のある村の真ん中の広場へ連れて来て貰うと鍋に濁った水を入れて火にかけた。
グツグツと煮詰まった鍋の上へ桶を逆さにして蓋をし、蒸気で桶が濡れるのを待ってハンカチで拭く。
幾らか綺麗になった桶を再び鍋の上へ被せた。

「ほら見て、綺麗な水だけが桶の底に集まるでしょ。なるべく沢山欲しいから、暫くお願いね!」

一度に出来る量は少ないが、着実に透明な水が集まって来た。

香織は青年の家に戻って布を掛け布らしき物を探して女性にかける。
薄っぺらい布は何の役にも経ってないようだった。
背は腹に変えられないと、先ほど教えてもらった通り空き家らしき家を片っ端からあたり、掛け布を持ってきた。
あつめた掛け布の数は7枚。それ以外にも小さい布が何枚かあるが、どれも汚れていてすぐ使うことはできない。
掛け布4枚を天日に晒すことにして、残りを女性にかけた。香織の部屋の掛け布は汚れていた中ではマシな方だった。

「汚いけど、しばらくはこれで。」

香織はハンカチを濁った水に濡らし、女性の額へ乗せてから家を出ていった。


家探しをしているようで気が引けるが、空き家には沢山の生活用品がそろっている。
目当ての大きさの鍋や桶もあった。
香織は火の近くにいる青年の隣へ腰を下ろし、深みのある穴の開いた桶に汚れのまともな布、火の回りに落ちている炭、砂、小さな石、大きな石、布を順番に敷き詰めていく。
川から汲んできた水を静かにそこに流せば、下からは透明な水が出てきた。

「上手く出来た!飲み水は熱を加えた方が良いけど、それ以外はこれでも良さそう。元々川の水は飲める水なんでしょ?」

「あ、あぁ…。」

青年はまるで奇術のように泥水を真水へ変えた香織へ、驚きを隠せなかった。
香織は濾過した水を使って布を茹でていく。水で洗えば良い汚さの物も中にはあったが、熱を加えた方が汚れが落ちやすい事は間違いなかった。

「これでだいぶん衛生面はマシになったかなー。飲み水もばっちりだね。」

「かゆもこの水で作るのか?」

「そうだよ。だから沢山作って。…むしろあの濁った水でご飯作ってた事に驚くよ」



そうして看病に明け暮れる間に、数日が経った。









順調に回復していった女性は、今では完治している。
回復の噂を青年が流し、村人が少しずつ衛生の向上に努めた結果、感冒の流行はみるみるうちに収まっていった。
香織が進めたのは手洗いうがい。それから看病する人は濡れた布を口に当てるといった基本的な事。

「インフルエンザだって結局は手洗いうがいで対応するしかないんだもんね。案外原始的だなぁ。」

回復した人々はすぐに働き始める。動かなくては食べ物が手に入らないことは、彼らが一番良く知っていた。
隣の村へ出かけた人が野菜を仕入れてきた。きっともうすぐあの老人へも流行り病の収束が耳に入るだろう。

「おい香織!大変だ!役人が、役人が香織の噂を聞きつけて村にやってきたぞ!」

悪い噂ではないだろうとは思っていても、知らない人間が自分を探しているとなると緊張してしまう。
何も起こらないことを祈って村人に案内されるまま村の出入り口へ向かい待っていると、見知った顔が目の前に現れた。

「法正!!」

香織は友人の姿にすっかり気を許し、縋り付くようにして喜んだ。

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