長編 魏

□華燭の典
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衣裳の話など全く聞かされていなかった香織は、初めて目にする赤い絹の衣装を見て目を白黒とさせた。両親が内緒で揃えてくれたそれは尚書台吏部曹尚書の娘が着るのに似合いの美しさだった。

「こちらを纏って、その後は扇で顔を隠しなさい。婚家に着いて許可が下りるまで外さぬこと。良いですね。」

「はい。」

赤い衣装は裾が長く、ふんだんに施された刺繍が衣裳の重みとなって纏った香織を包み込んだ。金糸が色んな方向へ反射し、神々しい程である。父は目頭を押さえ感動していたが、母は最期まで粗相のないようにと香織に繰り返した。婚家での嫁の肩身の狭さは経験者にしかわからないものらしい。


「お迎えに上がりました。」

深く拱手した李典の姿を扇を傾けて覗いていると、母に小突かれてしまった。香織は両親へ行ってまいりますと言葉を残し、溢れてきた涙を扇で隠して馬車へ向かった。
揺れる馬車はいつか乗ったものと同じはずなのに、どこか悲しみのある揺れ方であった。とめどなく溢れる涙に、扇を傍に置いて袖で涙を拭う。

「なんだ、泣いてんのか?」

「李典様!覗かないでください!」

李典は馬車を止めることもなく、出入り口の垂れ幕に手をかけて中を覗いていた。

「両親との別れを悲しんでいたのです。」

「悲しむ事か?いつでも会いに行けば良いじゃないか。」

「嫁いだ後には戻れないのですよ。先生がおっしゃっていました!」

「俺が良いって言ってんだから良いだろ?」

李典は涙を袖で拭う香織に見かねて手巾を渡した。絹の布で目元を押さえれば、念入りに施された白粉も付いてしまった。どうやら相当涙が流れているらしい。

「あ、ありがとうございます。」

「気にすんな。」

李典の腕が垂れ幕から離れた後、香織は自らの恵まれた環境を思った。今生の別れとして嫁入りする女性は沢山いると聞くし、顔も見ないうちに嫁に出されて相手と上手くいかない者もいるらしい。さらには、一族が滅ぼされた後に敵将に娶られる女性の話も聞いたことがある。それに比べて香織はといえば、恋い慕った相手と結ばれるばかりか、両親に会うことも許されるのだ。香織はなんと恵まれているのだろうと思ったら、再び涙が溢れてきてしまった。

「おーい、泣き止んだか…って、さっきより泣いてんのか。」

「李典様、私、幸せすぎて…どうしましょう。」

「え、今度はそっち…」

再び李典の手が垂れ幕を上げて顔が覗いたが、またしても離れてしまった。見えなくなった幕の向こう側で、李典の溜息が聞こえる。どうやら泣きやまない事を呆れているらしいと香織は思ったが、李典は馬車の外で顔を赤くしていた。香織は何度も涙を抑え、溢れ出ないようにと上を向いたり馬車の中を見渡したりと試みるも、いっこうに涙は止まらなかった。


「到着いたしました」

外からの声が聞こえ、香織は急いで扇で顔を隠した。馬車の垂れ幕が大きく捲られて、降りるように急かされる。香織は緊張しつつ馬車から踏み台へ足を延ばし、ゆっくりと地面に降り立った。扇の隙間から見えるのは大きな門である。城門ほどではないが、明らかに豪邸の風格あるそれに恐れを抱いて下を向いてしまった。すると香織が扇を持つ右手が誰かに捕えられ、同時に左肩を後ろへ引かれる。香織が驚き後ろを振り向けば、香織の唇に李典のそれが重ね合わされた。香織は驚き目をぱちりと開いた。いつかもこういった事があったと思い出し、唇が離れた後も李典から目が離せないでいる。

「へへ、二回目」

「李典様!奥方様!」

顔を見合わせ笑い合う二人へ、門前から悲鳴にも似た声がかかった。先生の声だとは、顔を見なくても分かる。香織は声を聞くなり全身が石のように固まってしまった。

「扇で見えなかったはずだろぉ、ったくそんな怒る事かよ…」

どうやら李典は怒鳴られる事に慣れているらしく、平然と文句を言った。

「行こうぜ、今日は夜まで宴だ。身内だけだから、緊張すんなよな。」

李典はとん、と香織の背を押して門へと導いた。重い着物に歩みの拙い香織の手を引いて歩く姿はとても頼りがいのある夫の背をしている。
その後始まった婚礼の儀はやはり地味なもので、神様の前で誓いのキスをすることもなければ、お色直しもなかった。









宴は夜まで続いた。
香織が先生と呼んでいた女性は李典の亡くした叔父の妻であり李典の教育も担っていたらしい。今でも頭が上がらないようだ。義理の母のように思って良いと言われ、香織はとてもうれしくなった。


「沢山飲みましたね。とても素敵な方ばかりでしたし。」

「あぁ…頭痛くないか?」

「は、はい。平気です。」

二人で牀に横たわり一日を振り返りつつも香織は初夜の緊張に息をするのも辛い程であった。以前そういう雰囲気になった時は婚姻を結ぶまで待ってもらう事にしたのだが、それが今日果たされようとしている。

香織はいつその時が来ても良いように、李典の傍にぴたりと寄り添っていたが、中々触れられる事がない。

「はぁ…緊張するぜ、焦らされすぎて逆に手を出しにくくなったっつーか…」

「ふふ、李典様なんですかそれ、ふふふ、」

「あー笑うなって!馬車の中では大泣きしてた癖によ。」




初夜とは思えない雰囲気に二人で笑い合い、その後二人はどちらからともなく唇を重ねた。
香織が笑顔で口付けをしたのはそれが初めてであった。
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