長編 魏

□華燭の典
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李典番外編1



「では、ひと月後に華燭の典を。細かい事は後で使者がお伝えいたします。」

李典は外向きの表情でそう告げると幾つかの荷車とともに香織の家を後にした。ガラガラと進む荷車の音が小さくなって行き、跪いて拱手し見送る香織たち家族に終わりを知らせる。

「私、お嫁に行くことになりました。」

香織が両親に伝えたのは情けない事にその一言のみであったが、両親は久しぶりに合う娘が全く変わらない様子でいるのを喜んでいて気にしてないようだった。

「姉さま、この箱開けて良い?」

「ええ、開けましょう。私も見たことないから一緒にね。」

久しぶりに家族に会うのは香織も同じで、なるべく誰かと共にいようと荷物を開封したり食事の準備をして過ごす事にした。開封した褒美の中には見たこともない艶のある絹や、手を触れるのも躊躇うほど細やかな細工の施された器などが数え切れないほど入っている。


そうして1日はあっという間に過ぎてしまった。




翌日、念願のゆったりとした起床をして過ごすのだという香織の決意を砕いたのは、来訪者の知らせであった。香織は急いで化粧を施し応接間へ行くと、見たことのない中年の女性がいた。挨拶を済ませれば、李家からの使いだと言った。

「申し上げにくい事ですが、いくら李典様に目をかけられているとしても、このままではとてもあなたを花嫁として迎えるわけに参りません。あと一月の間に、貴人としての振る舞いを身につけて頂きますよ。」

応接間へ小走りで来たのがばれていたらしい、挨拶を済ませるなりそう言われてしまった。

「本日は急なことですから何もいたしませんが、今日はこちらをおいて行きます。二日の後に伺うまでには読んでおくように。よろしいですね。」

「はぁ…」

「よろしいですね」

「はい。」

静かなのか荒々しいのかわからないうちにその女性は帰って行った。卓の下には女誡と書かれた竹簡が10巻以上入ったカゴか残されたままである。香織はその竹簡の入った箱を自分の部屋へ運ぶと、早速と開いて読み始めた。女性とは何か、婚家ではどうするべきかの訓戒が並ぶその書物は初めて目にするもので。香織は兵法書よりも格段に内容の平易なその書物を1日で読み終えてしまい、後日訪れた時に驚かれてしまった。


「声が小さいのは、下の者に対してよくありません。もう少し大きな声で話しなさい」

「はい…。」

「声が小さい」

「はい!」

教育のためにと毎日来る女性は女官長を少し活発にしたような性格で、中々の厳しさである。香織は女性を先生と呼びながら李家に嫁ぐのがどれほど大変な事なのか、香織は日に日に心に刻まれていった。それなのに少しも嫁入りしたくないといった感情が出てこない。所謂マリッジブルーという物がいつになってもやってこないのであった。そうこうしている間に、婚姻の日まで3日となっていた。その日、少しの緊張が香織の中で育ち始めた夜に、急な来訪者があった。月が天高く上る深夜だというのに、香織が門の内側で空を見上げていた時の事である。この狭く殺風景だけれども心の落ち着く家で過ごすのもあと3日なのだと思い出に浸っていたのだ。

「よぉ、久しぶりにあんたの顔を見れたぜ」

「李典様!」

深夜だというのに声をあげてしまった香織へ、李典は人差し指を口元に当てた。

「…まさか起きているとは思わなかったけどな。」

「眠れなくて、月を見ておりました。」

一月ぶりだというのに相も変わらずな態度の李典へ、隣に並んで門の段差へ腰かけた香織は李典の横顔を見て笑った。この人と結婚をするのだという実感は未だに湧いてこないけれど、ずっと一緒にいられるのだという嬉しさだけはとめどなく溢れてくる。

「あのように大声を出してしまっては、先生に怒られてしまいますね。」

「あぁ…やっぱり来てるのか。俺もあの人には未だに怒られるからな…でも、少しだけの辛抱だぜ。きっと良い経験になる。」

「はい…」

香織の苦笑に李典も釣られて笑うと、香織の頭をぽんぽんと叩いた。香織はそういえばと、作法の勉強のせいでついつい忘れていた事を李典に聞く事にした。

「そういえば、華燭の典とはどういうことをするのですか」

「俺があんたを迎えに行って、あんたが俺の家で盃を拝して、招いた客と夜まで騒ぐ…って感じか?」

「それ、だけ…?」

「あぁ、それだけ。」

香織は思ってもみないあっさりとした祝い事に、少し気落ちしたような気がした。現代であれば結婚式の主役は花嫁で、2回は着替えてお祝いをするし、神様の前で愛を誓ったり誓いのキスをする。特別なイベントなのである。

「ん?なんだ、なんでそんな気落ちしてんだよ?」

「えぇ…凄く今更ですがそうなんだと思って…」

「ちょっと待て、結婚したくないとか言い出すんじゃないだろな、俺は天地神明に誓ってあんたを幸せにするつもりだぜ。」

李典は急に落ち込み始めた香織の様子に何事かと思うも、自分には何も変な発言がなかったこともあってどうする事も出来ずにただただ香織の瞳をのぞき込んだ。香織は少し口を尖らせて、天地神明に誓って幸せにしてくれるなら良いかと、月を見上げてふいに思いついた。

「李典様、今、護身用の刃物はお持ちですか?」

「あぁ、一応持ってるぜ…城からの帰りだからな。」

「じゃあ今から行きましょう!」

香織は李典の手を取り門を出て、外で待っている馬の前を通り越し、そのまま誰もいない通りを小走りでかけた。機会はきっと今日しかない。手習いの先生の言葉では、李家に嫁いだら勝手に外へ出たりできないようであったのだから。少しばかり通りを走った先にある目的地の建物に到着して香織は立ち止まった。香織の息切れた背中を呆れるように一瞥した後、李典はその建物の壁を見た。壁には女禍廟の文字がある。

「あら…暗いですね」

「深夜だからなー。」

香織はがっかりした風につぶやいたが当然である。深夜まで灯りを灯すほど寺院に無駄な油はない。しかしながら香織は怯むことなく階段を上がった先にある御堂へ入っていった。李典も誰がいるのか分からない場所へ一人で行かせるわけにはいかないと、たまに見せる香織の活発さに溜息をついてすぐに後を追った。

「…やっぱり。蝋が残ってます。石は…あった。」

香織は残りかけの蝋を見ると、お堂の手前の戸棚の前に放置されたままの火打石を目ざとく見つけ、火を付けた。正面に二か所とその入り口の二か所の合計四か所の蝋に火を付ければ、こじんまりとした御堂の中は黄色い灯りに包まれる。磨き上げられたお堂の床は綺麗なもので、信仰の深さが知れた。正面には小さな女禍の像がある。鉄で作られているらしいその像は庶民の信仰の対象らしさのある貧相な出来であったが、それでも綺麗な布を纏われ丁重に扱われていた。


「ここは近所の人が縁結びのお参りに来るんです。お城に入る前は私も何度か来たことがありました。」

「へぇ。好きな奴でもいたのか?」

「いいえ、良い人に巡り合えますようにって。」

李典は婚姻の決まった今であっても香織の言葉にムッとしてしまう自分を恥じて頬をかいたが、香織は気にしていないようで初めて夜に入るのだろうお堂の中をきょろきょろと見渡した後に本堂の正面へ立つと李典へ手招きをした。

「女禍様、もう何年も昔の事なのに、私のお願いを聞いてくださってありがとうございました。」

香織は膝をついて女禍を見上げ、祈るように手を握りしめそう言った。きっとこうして良い人に巡り合えるようにと以前も祈っていたのだなと思えば、李典は香織が一層愛おしくなって隣に同じように膝を付いて拱手した。

「李典様、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、命ある限り香織を愛して下さると誓いますか?」

「…誓います。」

「私も、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、命ある限り李典様を愛すると誓います。」

何かの文言なのだろうか、李典には知りえない言葉の繋がりであったが、決まりきった儀式のようにして調子の良い音に合された言葉を唱えられれば、自然と答える事ができた。香織が目を瞑って何かを願っているのが横目に見えて、李典も拱手し俺たち夫婦をよろしくお願いしますと平易だけれど本心からの言葉を内心で願った。すると、像の後に吊るされた飾り布の上辺に付けられた鈴がちりんと鳴り、香織と李典は顔を見合わせた。

「きっと答えて下さったんですよ。」

「風…だろうけどな。」

「もう…夢がないですね…。」

その後香織はにこにこと上機嫌な様子で四か所の火を全て消し、女禍廟を後にする。来た時と同じように李典の手を引き、今度はゆったりとした歩調で家へ歩いた。

「これが目当てだったのか?」

「はい。ご利益あると良いですよね。」

「俺の感では…悪い気はしないぜ」

「じゃあ大丈夫ですね」


それではおやすみなさいませと香織が家に入っていくのを見送った李典は馬に跨って自らの家へ帰っていった。
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