長編 魏

□30
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李典30


四阿で息をついた李典の耳にはやけにきつそうな呼吸音が聞こえてきた。


「あ、悪い…。」

「りてっ、様っ、早っ、」

香織ははぁはぁと上がる息を整えて右手で胸を押さえた。久しぶりの駆け足に呼吸が着いていけない。

「簪も落ちそうだな」

すっと髪に手を添えて指し直せば、李典の手に触れた蝶の羽根がふわりと揺れた。

「これ、似合ってる…と思うぜ俺」

「ありがとうございます。」

がしがしと頭をかいた李典は立ち込め始めた気まずい空気をなんとかしなくてはと、必死に言葉を探した。まず最初に鈴麗の事を謝るべきか、体調を思いやるべきなのか、先程果たしてしまった求婚を此処でやり直すべきなのかと思考を巡らせる。しかしながらどれを先にすべきなのか決まる前に、目の前にいる香織から鼻を啜る音が聞こえてきた。視線を向ければ口を手で押さえ下を向いている。あぁ、自分はなんて気の利かない男なのだと省みて、直ぐに香織を抱きしめた。

「りて、様。ごめんなさい、私、お城、出て、」

「あぁ、気にしなくて良い。あんたは殺されかけたんだ。城を出るのは当然だと思うぜ俺。」

「李典、様、も、会えな、」

「それはまぁ…。そうだな…そうなる。」

香織が城を出たいと言うのは本心で、宴の会場でも途中までは帰りたかったのだ。早く帰って安息の地で休みたいと、その一心で何日もかけて布団の中で李典を忘れる決心をしたはずだった。それなのに、その想いは宴席の中で脆くも崩れ去り。香織の憂いは全て取り払われてしまった。郭嘉は鈴麗に手を下さないと言ってくれたし、曹操が香織の父の位を上げてくれるという。一瞬で変わってしまった周りの条件に取り残されるように、香織の心だけが追いつかない。絶対に変わるはずのなかった己を取り巻く環境が、強大な力によってみるみるうちに変わってしまい、香織の気持ちだけが宴の席に向かう時のまま李典を忘れると決心したではないかと訴えていて、その儚い抵抗のせいで素直に喜べないでいる。明日から会えなくなるのはとても悲しいが、ここで先程の話の通りに李典のものとなってしまえば毎日でも会えるのに、その一歩はとても大きなものだった。香織から言わなければいけない。好きだという気持ちを。

「香織、あーもう泣くな泣くな、泣くなって。」

李典は香織の肩を抱いて背を撫でたり頭を撫でたりと試してみたが、いまいちピンとこなかった。何をすれば良いのか分からず、やけに高い目線から香織を見下ろしている。


「ごめ、なさ、好きで、好き、りて、様。好き、なの、」

「あぁ?嬉しいぜそれ…あぁもう泣くなって。」

李典は自分の勘がひどく訴え始めたのを知って、泣き止ませるにはこれしかないと思い香織の肩をキツく握って一歩引くと香織の柔らかそうな唇に自分のそれを重ねた。遥か下に存在するそれを腰を曲げて重ねれば、李典としては貪るように喰んだり舌を絡めたりとしたかったが触れた瞬間に香織の肩が揺れたのを知って重ねる程度に留めた。どんな時も冷静に一歩引いて場を読む、そんな個性が此処でも役に立つとは。

「……。」

「予感的中!泣き止んだな?」

香織は何が起こったのか分からないと言った具合にきょとんとして足元なのか遠くなのか分からない所を見ている。まさか先程まで永遠の別れをする予定だった人物と口付けをすることになるとは…と、考えられない事態に静かに左手で唇に触れてみた。感触は残っている。

「おい、平気か?おーい。」

「へ、平気です。李典様。」

泣き止んだ直後なのにやけにはっきりと李典の名を呼び、視線を交わすと、好きです、と再び香織は呟いた。

「そんなに何度も言われると照れるぜぇ俺。」

「でも、好きなんです。それなのに離れようとしてしまったから、もう二度と会えなくなるところでした…。」

なんと危険な選択だったのかと、冷静になれば恐ろしくなるほどだ。李典を忘れる事なんて出来るのか、おそらくは忘れる方法さえ見つからない。

「じゃ…、じゃあ俺からも言わせてもらうぜ。俺は香織、あんたが好きだ。だから嫁に来て欲しい。」

「は、はい。」

李典の言葉はやけに早口だった。聞き取るのに精一杯で、決まり切った返事を返した後もう一度心の中で聞き直せば顔がじんわりと暖かくなる。香織は恥ずかし紛れに李典の胸元へ飛び込み顔を擦り付けると、胸元で李典の香りを肺一杯に吸い込んだ。体の中全てが李典で埋まるような気分になると、自然に笑顔がこぼれる。

「っくしゅ、」

「そうだよなぁ、真冬に四阿で長話はまずいよなぁ、」

香織はこくりと頷き、手を引かれるままに李典の執務室へと向かった。途中で何度か宿舎に戻らなくて平気なのか、本当に執務室に行っても平気かと聞かれたが、今日は宴で就寝時間に決まりがないため問題ないというと、そういう意味ではないと頭をかいていた。質問の意味が分かったのは執務室に入って李典の腕に力強く抱き込まれた後で、これ以上じらされるとどうにかなるぜ、という言い訳じみた言葉と共に吐き出される荒々しい呼吸を聞いて、もう戻れないところまで来たのだと実感したのだった。








やけにふかふかな布団の上で目を覚ました香織は、いつかと同じように体の上に重りが乗っているのに気がついた。ふわふわとした寝起きの感覚でその腕を体の横に動かした後、両手で掴み抱きしめて口付ける。一人きりではない事が嬉しくて、自然と笑顔になった。目をこすり開けば李典はまだ寝ているようで、聞こえるかどうかわからないほど小さな寝息を立てている。

「李典様…旦那様?旦那様…李典様」

結婚した後の高貴な男女が互いにどう呼ぶのかいまいち分からないが、市場の奥さんが旦那のことをあんたと呼んでいたのだけは参考にならない気がした。李家ほどの名家であれば、妻も夫を旦那様と呼ぶのかもしれないというのが香織の着地点であったが、正解は謎のままなのでどうにも落ち着かなかった。

「香織…あんた朝から可愛過ぎだろ。」

「わっ、李典様!」

声に驚く暇もなく抱きしめられて布団の中に閉じ込められれば、暖かい李典の胸元に顔がくっついて息が出来ない。顔を背けてなんとか息をすれば、目が覚め切ってしまった。

「おはようございます…あっ!私、今日は帰る準備をしなくてはいけません!」

「それなら慌てなくて良いぜ。どうせ馬車が揃うのは昼過ぎだ。午前中に挨拶に周り、昼過ぎに出ることになるはずだぜ。」

「馬車…ですか?」

ふぁぁ、とあくびと共に締まりのない言葉でそう言うと、李典は起きるらしく香織もそれに習った。朝からこそこそと宿舎に戻り髪や衣裳を整えて、午前中にお世話になった人々への挨拶を済ませれば、李典の言っていた馬車の準備という言葉の意味を理解する事になる。





通用口へと行けば、誰か来ているのだろうか人の移動のための馬車と共に荷物の積まれた荷車が前後に4台ずつ並んでいた。それらを横目に、李典が厩のある別の門から出て来るのを待つ。今日も特に執務はないらしく、わざわざ家まで送ってくれるのだという優しさに甘えることにした。蹄の音がして振り向けば、以前乗せてもらった馬に乗って来た李典が、香織の目の前で馬を止めて降りた。早速前に乗せてもらおうと馬の元まで行くと、李典は気まずい様子で目を逸らす。

「やっぱりそう思うよな…。」

「え?今日は馬で送ってくださるのではないですか?」

「いや、あんたはこっち、俺はこれ。」

李典の指し示す先には先程の馬車があって、え、と固まってしまった香織の手を引いて馬車の元まで行けば、付き人らしき男が踏み台を地面に置く。

「待ってください。これって…もしかして前後の荷車も」

「正解。曹操殿からの褒美って奴だ。」

「家の中に入らないかもしれません…」

「それじゃあ、一部の荷物だけ後でうちに運ぶか。」


李典の言ったうちにという言葉の意味は当然李家へという意味で、それはつまり李家に香織の荷物が運ばれるということを意味していて。香織は赤くなりお願いしますと言ったが、李典はいまいち赤面の意味が分からなかった。

踏み台に足をかけて馬車に乗れば小窓から李典の乗る馬が見える。良家の子女が護衛を付けて移動するようだと思い、初めての待遇に顔がにやけてしまった。広い城の中をゆったりと馬車は歩き、李典は香織の家を知っているのだろうかという不安を抱いたが、聞かれない限りは平気なのだと思い直して景色を楽しんだ。
前後の荷車にはぱっと見たところ絹や見た事もない大きな壺のようなものなどがあり、どうすれば良いかわからないが、絹は取り敢えず大きくなっているだろう妹にも分けてあげられそうだ。
一行が香織の家に到着すれば、庶民の住まうこの辺りに馬車や荷車の列が止まるなど何事なのかと近所や通行人の視線を集め、下男に呼び出されて出てきた香織の両親もぽかんと口を開けていた。今日は確かに自宅で待機しろとの命がおりていたが、貴人を迎える準備はしていない。

「到着致しました。」

先程の男が外から声をかけて、踏み台の置かれた音がした。香織は数年ぶりに家族と対面する緊張感か手が震えるのを押さえて、ゆっくりと地面に降りた。

「父さま、母さま、香織です。ただいま戻りました。」

香織の聞き慣れた声にはっとした両親は、笑顔で帰って来た娘にとても喜んだ。李典はその後預かった辞令を読み上げ、父親の尚書台吏部曹尚書への移動を申し付けると、ついでのようにして香織を李家の嫁にすることも伝えてしまった。





こうして香織の入城は無事に終わり、結ばれた二人は末長く幸せに暮らすこととなった。



終わり

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