長編 魏

□29
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李典29


何度も繰り返される宴は少しずつ人員が入れ替わり砕けた会へと移行してさらに盛り上がりを増している。地方に行けば行くほど平均的な官位が低くなる上、中央に駆け付ける時間はかかるのだが、地方独自の産物を持って祝いに駆けつけられれば賑わいも増すと言うもの。遠路遥々娘を連れて来ている官吏も大勢で、宴の席は華やかであった。徐庶はその日、盛り上がり始めた宴席を中座して約束の場所へ香織を迎えに行った。暗い夜道の先で、銀糸の織り込まれた青い肩掛けが月の光を浴びて光り輝き夜風を受けて流れていた。月を見上げ佇む様子は聖人が月に祈りを捧げているような姿で、徐庶は一瞬声を掛けるのをためらってしまうほどだった。

「…香織殿?」

「徐庶様。」

振り向けば期待したとおりの人がそこにいて、徐庶を見て笑った。香織は普段と同じように静かな足取りで徐庶に近付きお迎えありがとうございますと一言添えた。徐庶はあくまでも香織は女官であって李典と恋仲であって…と何度も唱え、手を取り夜道を転ばないようにと気遣いながらも、なるべく香織へ視線を寄越さないように気をつけつつ宴席へと招いた。

無礼講とは言っても、やはり身分の壁はあるものだ。それぞれの階級で集まって飲む様子に、香織は自分の場所を探そうときょろきょろと視線を動かすものの徐庶は香織の手を引きながら先を歩いて行ってしまう。徐庶には一縷の望みがあり、其の為に香織をある卓へと導いて行きたかったのだ。

「おお、香織殿か。」

「張遼様。お久しぶりでございます」

香織が声に反応して拱手し頭を下げれば、香織の髪の上で張遼が贈った簪の蝶が動いた。ふわふわと緩やかに羽を動かすそれに張遼は満足そうに頷くと、やはり似合っておると端的な感想を述べる。久しぶりに聞く武人らしい素朴な言葉に、香織は嬉しくなってありがとうございますと満面の笑みで答えると、徐庶に腕を引かれて再び上座を目指す事となった。

香織は酒の席で席順が入り乱れて来ているとは言え張遼よりも上座に足を踏み入れる事に不安を抱き徐庶の腕を引いた。香織の希望は宴への参加のみである。名将と共に座ることを望んではいなかった。下座の席から李典の姿を一度でも見る事が出来ればそれで満足するつもりでいたし、見知った女官の面々と特別な時間を過ごすつもりだったのだ。

徐庶は振り返り、当然の事のように君の席はあっちだと言い上座を指す。徐庶の指先を視線で追えば、1番奥の卓を指していた。大きな長方形の卓では20人ほどの人々が椅子に座って囲んでおり、もちろん上座には曹操が、そして郭嘉を始めとする名だたる将が盃を交わし談笑して、隣に侍る美しい女性の相手をしていた。其の中には当然李典の姿もあって、両脇を美女に挟まれ少し困りながらも頷く顔を見れば、湧き上がるのは嫉妬心であってこの感情は家に持ち帰りたくない。これ以上李典へ近付いてはいけないと、香織は徐庶の瞳を見ながら横へ首を振った。折角最後の時間を楽しみに来たのに、これでは楽しめたものではない。

「徐庶様。私は下がらせて頂きます。もう…充分ですから。」

「そんな…香織殿。このままじゃだめだ。」

「徐庶様、私を引きとめようとされているのなら諦めてください。私はここにいたくないのです。早く実家に帰り、」

「あぁ、やはり月明かりを受けずともあなたは美しいね。」


必死に徐庶を説得していた香織の肩が突然誰かに抱かれた。横目に見れば声で予想出来た通り和かに笑う郭嘉の姿があった。徐庶なら巻ける気がするが郭嘉は無理だと思った香織は、自らを引きとめようとした徐庶を悔し紛れに睨んだ。明日には城を出るのだから、主だとか女官だとかはもはや関係ない。

「郭嘉様にお別れの言葉を申し上げます。」

香織は郭嘉の腕の中から抜け出て頭を下げて深く礼を取ると、先手を打つとばかりに明日城を去る旨を述べた。徐庶の期待に反して、郭嘉は引き留める素振りを見せずに頷いてそうなのと受け入れる。徐庶は落胆し、他に香織を引き留める術がないものかと周りを見渡すも、李典を始め賈クや楽進は楽しく酒席を囲んでいた。

「それでは今宵、あなたと最後の時を過ごさせて貰おう。貴方を紹介したい人もいることだし、付き合ってくれるよね。」

「え、あの郭嘉様、私は、」

郭嘉は有無を言わさずといった様子で、徐庶に視線を投げると香織の肩を再度掴んで席へと連れて行った。左隣は郭嘉の指示通りに徐庶が立ちふさがり、二人の将の間に挟まれては逃げようもない。
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