長編 魏

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香織は夢を見ていた。それは幼い頃、まだ香織が平和な世に住んでいた頃に聞いた御伽噺のうちの一つ。毎日仕事に追われる貧相な格好をした女性は、ある夜魔法使いの手助けを得てお城の舞踏会に行き王子様と出会うのだ。香織はその女性が楽しげに踊るのを、物陰から見ていた。広い庭の中央、噴水のある場所へ腰掛けた二人は仲睦まじい様子で何かを話していた。王子様は女性を愛し、優しく頬へ口付ける。あの優しい口付けは香織も何度か受け取ったことがあるものだと、木陰で一人唇を噛んだ。彼女は楽しげにしているが、この後女性はお城を飛び出すことになる。其の後どうなったのか知っているような気もしたが夢の中では思い出せずお城になんて行かなければ良かったのだと香織は夢の中の女性を見つめた。憧れても触れてはいけないものがある。香織のように、彼女もきっと傷付き泣き晴らす日々を送るのだろう。なんて悲しい物語だろうか。憧れを抱いたばかりに苦しみを味わうことになるなんて。李典様に近付きさえしなければこんな事にならずに…はっとして目を開けば、香織は牀に横たわっていた。朝の薄暗さに目を擦り、今日は徐庶に城を去りたいと話をする日だった事を思い出して深呼吸をして身支度を始める。







李典は何かがおかしいと竹簡を広げながら首を傾げた。良くないことが起こっていると勘が訴えるがそれが何なのか見当も付かない。朝から妙に落ち着かなくて、その勘の根拠は普段通り分からなくて、ただただもやもやした。戦場から引き上げる時も抜かりなく終えたし、帰還した後の宴も面倒ではあるが順調に進んでいた。毎日毎日交代で父親にせっつかれたのだろう女が李典の隣へと座りお酌に褒め言葉にと忙しかった。唯一おかしくないと確認出来ないのは香織の容体で、しかし徐庶の雰囲気を察するに体の具合は悪くなさそうであった。林杏と呼ばれる女官が香織と仲が良かった事を思い出して声をかけたが、体調は良くなっていると言うだけであるし、李典は埒が明かないと徐庶の所へもう一度向かう途中で、軍師の執務室が多く入った文官の棟の奥から出てきた郭嘉に出会った。どうやら今夜の宴へと向かう最中らしい。


「おや、李典殿。そんな顔をしてどうしたのかな。」

「郭嘉殿、徐庶殿の執務室をご存知ですか」

「ここを右に曲がった所だよ。そういえば、ようやく心を決めたのだってね。徐庶殿から聞いて、あの女性には定軍山の方にある出城へ行って貰ったから。」

「郭嘉殿、何の、話…ですか。」

李典は郭嘉の話が全く理解出来ずに問いただした。襲い来るような違和感に語気が強くなるが、郭嘉は大して気にしていないようだ。

「先日貴方が鈴麗殿を遠ざけたいと言ったのでしょう?だから私は彼女を見送ることにしたんだよ。うん、香織殿を大事にしたい貴方の気持ちはとても素晴らしいと思うんだ。」

「いや…鈴麗の事なんか知りませんよ俺…」

「おや、どうやら話がおかしいようだね。徐庶殿の話では君が覚悟を決めたから、早急に鈴麗殿を遠ざけて欲しいって事だったけれど。」

「っ、郭嘉殿、失礼します。」


李典は弾かれたように徐庶の執務室へと急いだ。軍師の執務室はやけに入り組んでいるが曲がってすぐの扉は分かりやすく、李典は許可も得ずに扉を開いた。


「…誰もいない、な」

「もう宴が始まる時間だからね。徐庶殿も広間へ出ているのではないかな。」

荒々しく扉を開いた李典の視線の先には、がらんとした徐庶の執務室が広がっていた。

後ろには後を追って来た郭嘉がいて、李典の真後ろに立つと説明を求めるように視線を寄越した。郭嘉は知らない間に巻き込まれてしまい、困惑しているようだが表情には出ていなかった。冷静な顔をして、女官の事は女官長に聞くべきだと女官長の室がある棟へと廊下を歩いて行った。








「そうか…残念だな。」



徐庶は心底悔やんでいるようにそう言った。それはまっすぐな本心で、魏国に来てすぐの徐庶を案内して慣れさせてくれた香織への感謝の気持ちは山のようにあったのだ。

「いつ…が、良いのかな。辞める日取りは。」

「なるべく早く…今日にでも出て行きたいのです。」

そう言えばさらに視線を落とし落ち込む徐庶を見つめて、あぁ本当に弟のようだと思った香織は、城内でも色々と楽しい事があったものだなどと過去に思いを馳せていた。

「君には何のお返しも出来ていないよ。沢山助けて貰ったのに。俺は…」

「いいえ。私こそ沢山お世話になりました。六韜、とても勉強になりましたし。」

香織の視線は竹簡の棚へと移り、徐庶も同時にそこを見たあとはっとして口を開いた。

「それじゃあ六韜を書き写して君に送るから、それまではいてくれないか。そうだな…数日、数日で良いんだよ。」

「いいえ頂けません。徐庶様…。では、香織の最後のお願いを聞いてくださいますか。」

なんだい、と身を乗り出すように問いかける徐庶へと、香織は意外な願いを述べた。





「大変申し訳ありませんでした!」

女官長は膝を着いて頭を下げた。当事者が香織の意思を尊重した結果杏仁の毒の件は内密に処理されたのだがそれは褒められたことではなかった。城内で毒を用いたとあれば投獄されて然るべき事件で、法に基づいて処理すべき案件だ。しかしながら今回は徐庶の支持で動いているので特例事項だろうと判断した郭嘉は女官長の手を取り立ち上がらせて、李典の話も合わせて事の流れを全てを聞き出した。

「つまり香織殿は李典殿の前から消えるつもりでいる…ということかな。」

「あぁもう!どうすれば良いんだ俺…」

「もっと早くに鈴麗殿を遠ざけるべきだった…彼女のその場しのぎの言葉に惑わされたのが敗因…かな。」

「あぁ、どうすれば良いかわかんないぜ俺…香織は今どこにいるんだ…悪い予感だけがするぜ」

頭を抱える李典の酷い落ち込みように、郭嘉はふと笑った。やはり自分は今までのように刹那を楽しむ事から変化しているらしい。一人の女性の為に頭を抱えるほど悩む李典が羨ましく思えた。

「うん、とてもいい。」

「えぇっ、郭嘉殿…何楽しんでるんですか、俺の人生がかかってるのに!」

「李典殿、香織殿は敵を捉える気もないのに欲擒姑縦のはかりごとを口にした…軍師の真似事をするなんて、お仕置きが必要だとは思わないかな?」

郭嘉は至極楽しそうにそう言うと、右手を口元に当てて考え事を始めた。女官長にも李典にも分からない先程の言葉の意味に戸惑っていたが、李典は大事な事に気付いて口を開いた。


「いや、待ってくださいよ!毒を盛られた奴にまだ追い打ちをかける気なんですか!」

「うん。だって、私も香織殿には幸せになって貰いたいし、きっと面白いと思うんだ。だから…ね、私に任せてくれないかな。」

郭嘉は最初に香織が現在何処へいるのかを考えた。おそらく宿舎で大人しくはしていないはずだ。徐庶が簡単に手放すはずはなく、おそらくは香織を引き止める策を練っているはずで。女官長の話では、香織はすぐにでも城を出たいといっているらしいが言葉と本心が常に異なるのが女性というものだと知っている郭嘉は、恐らく香織は城に未練を持っていて最後の楽しみにと宴へ出るはずだと予想した。そして追い詰められた香織の困り顔を頭に思い浮かべれば、さらに楽しくなった。また、先日移動の依頼をした時の呆けた顔をもう一度見ることが出来るとしたら、恐らく今回が最後になるだろう。

「なるほど…ね。さぁ、宴へ行こうか。楽しい時間になりそうだ。」

「郭嘉殿…信じますよ、頼みますからね俺ぇ!」

にこにこと微笑む郭嘉を横目に、李典は長い廊下を歩いて行った。女官長は二人の背を見送って再び仕事に戻る。

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